お菓子の工房 エミール



吉野
生年月日とご出身地を教えてください。
高橋氏
1956年の9月9日、北海道の十勝帯広の近くの出身です。
吉野
北海道ならスキーやスケートというイメージですね。
高橋氏
スキーやスケートは、学校で必須科目でした。ただプールのある学校は少なく、私の行ってた学校にはなかったんで、夏の水泳はありませんでした。
吉野
高橋オーナーのご実家は何をされていたんですか?
シェフ
高橋氏
農業です。大豆やじゃがいも、かぼちゃとか作っていました。
8月下旬から10月始めまで収穫を手伝わされるですが、遊べないでしょ・・・それが嫌いでした。
今でこそ山歩きやアウトドアは好きなんですが、当時は土にまみれて汚れて仕事をするのが嫌だったんです。
今にして思えば、親の苦労も知らないでいい気なモンでしたね。
吉野
お子さんの頃はどんなものに興味がありましたか?
高橋氏
料理です。フレンチのコックに憧れていました。中学の頃に地元の調理師免許がとれる専門高校があったんですが、学校の担任の先生に相談した時に、普通高校に行って一般教養を身につけてから専門の学校に行きなさいといわれたんでそうしました。
地元の高校を卒業して大阪の辻調理専門学校に行きました。
吉野
北海道から大阪ってかなり遠いですね。ご自分で決めたんですか?
高橋氏
札幌や帯広にも調理の専門学校はあったんですが、独立心が旺盛で親元から離れたかったんです。
兄と弟や妹がいた次男坊だったんで何やっても良かったんです。
大阪と言えば食い倒れの街だったんで料理を勉強するなら大阪がいいだろうと考えた訳です。それに学校紹介のパンフレットが豪華だったんで辻調理専門学校にしました。1年間学校の寮から通いました。
吉野
当時、学費はいくらだったんですか?
高橋氏
30年前で1年間約100万円でした。そのお金は両親から出してもらったんで在学中はバイトをしました。
吉野
大阪での暮らしはどうでした?
高橋氏
言葉で苦労しました。北海道は若干なまりや方言はあるんですが、標準語に近いんです。
ですから独特の大阪の方言が聞き取りにくい事もたびたびあってコミュニケーションがとれない時期もありましたが大阪の人は1度親しくなったら面倒見がいいんです。
調理学校の時は新阪急ホテルのベーカリーでバイトしてたんですが、その頃に「学校を卒業したらうちに来なよ。面倒みてやるから」という言葉をかけてくれる人もいました。
ただ、ホテルの上下関係は非常に厳しかったですね。黒のものでも白だという感じでした。
パートさんが失敗すると私が叱られる訳ですよ。当時はアルバイト頭をしていたからだと思うのですが、直接関係のない立場だったにも関わらずにですよ。矛盾は感じましたね。その後も理不尽な事で叱られた事は多かったです。
吉野
職人の世界の特有なものなんでしょうか?
高橋氏
調理学校を卒業する少し前にベーカリーで働いている方から話があるからと呼ばれたんですが、その人が「お前は優秀だったから、あえて厳しくしたんだ。いつかお前にも怒られた理由が分かる」と言われたんですが、18や19歳じゃ分かりませんよ。
今、考えても「そんなものかな?」と思うだけですよ。
昔の職人の世界だったらありえたのかもしれませんが、当時も時代が違うのになぁ・・・と思ったものです。
吉野
理不尽な事がまかり通るような業界なんですか?
高橋氏
一概にはそういう事は言えません。ただ有名な神みたいな存在のシェフだったら理不尽な事も甘んじて受けると思うのですが、職人の世界の99%は普通の職人です。だから勘違いしてはいけないと思うんです。
いい気になってどんな事でもまかり通ると思ってはいけないと思います。
特に若いスタッフへの対応は考えないといけないですね。人が定着しなくて辞めていく店っていうのは必ずオーナーに原因があると思うんです。でも、それが分からないから若い人のせいにしているんです。人が辞めていく店は信頼関係が構築されていないと思います。
若い人はそれなりに頑張っているんですから、もう少し理解できるように接していかなければならないと私は思いますね。
吉野
卒業後はどこに就職されたんですか?
高橋氏
とにかく東京に出たかったんです。
幸いな事に親戚が飲食店のマネージメントをしている人がいて、銀座の明治系のレストランカフェを紹介してもらいました。
でも、紹介してもらうのに時間がかかり結局6月になったんです。
吉野
そこからコック修業の始まりですね。
高橋氏
はい。日本橋の三越本店にある店で1週間研修したんですが、配属された店が横浜だったんです。
当時は日暮里の近くに住んでいたので1時間以上かけて通いました。
ここでは、料理の厨房にはスタッフに空きがなくて喫茶の厨房で働くようになりました。
吉野
どういうものを作られたんですか?。
高橋氏
レアチーズやプリンの仕込みをしたり、コーヒーや紅茶を淹れたりとかジュースを作ったりですね。喫茶のメニューはたくさんありました。
吉野
コックの仕事はできなかったんですね?
高橋氏
そうです。まあ、新入社員ですから自分が希望していない部署に回される事もしかたのないことかなと思ってはいましたが、何となくコックに対する気持も萎えてきていましたね。
そんな時に「プリン事件」が起こったんです。
吉野
プリン事件?
高橋氏
私がカスタードプリンの仕込みをしたものを料理の担当の上司のチーフが窯で湯煎するのですが、ちょうどランチタイムの時で忙しかったんだと思うんですが窯に入れていたのをチーフが忘れてしまったんです。
その時に限って本社の料理部長がたまたま来てたんです。部長が凄い剣幕で「これをやったのはだれだ?」と言ったんです。その時にチーフが部長の背中の後ろで私に向かって手を合わせているんですよ。
だから私としては上司のチーフからそんな事をされると何も言えなくなるんで、「私がやりました」と部長に告げたんです。
当然部長がさっきよりももっと凄い剣幕で「プリンも満足に焼けないのか」と怒られたんです。
吉野
なるほど。チーフをかばったんですね。
高橋氏
いや、かばうとかそういう事ではなく、上司から頼まれたらイヤとは言えないじゃないですか・・・。
でも、「プリンも焼けないのか」という言葉が妙に心に突き刺さって、
その時にプロの菓子職人になって部長を見返してやろうと思ったんです。
吉野
「プリン事件」で菓子職人になろうと決めたんですね。
高橋氏
そうです。入社3ヶ月でそこを辞めました。
ただ私の場合はお菓子業界に知り合いがいなかったんで親戚を通じて原宿の竹下通りにある「ビアンカ」という店を紹介してもらったんです。
面接で即採用でした。私としては前の会社の料理部長を見返してやりたいと考えていた訳で3・4年で菓子作りをマスターして前の店に戻ろうと考えていたんでコックをあきらめたつもりはなかったんです。
でも、結局戻れなかったですね。ひとつの事をできないのに2つは無理だなと思い始めて・・・料理は趣味で作っていこうと決めて、本格的に菓子職人の道を目指そうと思ったんです。
吉野
いかがでしたか、菓子職人の世界は?
高橋氏
菓子職人の業界の事は知らなかったんで、こんなもんだろうと受け入れるしかなかったですね。
朝8時から夜10時とか11時まで仕事してました。
当時はコンビニがない時代だったんで夕食には困りました。給料が安かったんで外食できないんですよ。
とにかく菓子作りを必死に学びました。

入って3年くらいの時かな・・・以前NHKの「今日の料理」で出演されていた森山幸子先生が荻窪で「フュッセン」というドイツ・スイス菓子の店をオープンされたんです。そこでお菓子を作られていたシェフがビアンカのシェフの先輩だった関係で「フュッセン」を紹介していただき、遊びに行った事があったんです。
衝撃でした。そのシェフはドイツ帰りの方で作るお菓子が「ビアンカ」で習っているものとは全然違うんです。本格的なドイツ菓子で一発でそのお菓子にのめり込みました。
そこで、ビアンカの仕事が終わった後で勉強させてもらえるようになり、毎日手伝いに行きました。
吉野
菓子職人に目覚めた瞬間ですね。
高橋氏
そうです。どうしても「フュッセン」に移って本格的に菓子作りを学びたいって気持でしたね。
でも、「ビアンカ」では当時は、年上の中堅の方々を使っていた立場だったんで、辞めていいんだろうかって悩みました。そんな時にビアンカの工場長が「何か悩み事でもあるのか?」と聞いてきたんです。
今がチャンスだと思って「来年の4月まで働くから、店を移らせてください」と切り出したんです。
そうすると「知ってたよ」という言葉にびっくりしました。そして工場長が「お前は、冷たいな〜。俺は応援しているつもりだよ」と言うんです。
そして「今は11月だから、後5ヶ月もあるけど、我慢できないだろう。この数ヶ月はお前にとっては3・4年に匹敵するから辞めるんだったら今すぐ辞めろ」と言われたんです。理解ある人でしたね。
吉野
それから「フュッセン」に移られたんですか?
高橋氏
そうです。自分としてはこの「フュッセン」で本格的な菓子職人の修行を始めたと思っています。
そして3年してからシェフが独立をされるので「フュッセン」を辞める時について行きたいと思ったんですが、シェフが「次のシェフはお前だから」って言われたんです。「フュッセン」に入って3年間は必死でお菓子作りを学んできたんですが、当時私よりも経験のある先輩も居たんで正直言ってシェフをやる自信はありませんでした。
吉野
信頼されていたんですね。
高橋氏
当時の製造スタッフに「オレも一生懸命勉強して頑張るから、お前たちついてきてくれるか?」と聞いたときに「一緒に頑張らせてください」と言ってくれたし、森山先生も奨めてくれたんでシェフを受ける事になりました。
吉野
スタッフからついてくるって言われるのが何よりでしたね。

文字

高橋氏
そうです。それが何よりも嬉しかったですね。今でも当時一緒に頑張ってくれた連中とは交流がありますよ。
26歳の頃だったんでスタッフと一緒にガムシャラに頑張りました。その頃に結婚もしたんで必死でした。
吉野
「フュッセン」には何年間おられたんですか?
高橋氏
24歳から32歳までですから8年間です。シェフとして5年間仕事をしました。
吉野
それから独立ですか?
高橋氏
そうです。妻の実家が石神井だったもんですから、できるだけ近いところで店を開きたくて西武線沿いで捜しました。
当時はバブル経済の終わり頃だったんで好景気の余波はまだ残っていてテナントの保証金がめちゃくちゃ高かったのを覚えています。自分の希望としている所が資金的に借りる事ができずに、保証金の安かった埼玉県の入間市でやることになったんですが、商店街のはずれでした。
吉野
店の経営はどうでしたか?
高橋氏
店をオープンして3ヶ月後には後悔しました。
確かに地域のお客様は来ていただいたんですが、客足は少なく商圏的には厳しい所でした。
吉野
商圏以外に何か理由があると思われますか?
高橋氏
お客様からお菓子のサイズが小さい割には価格が高いという事は言われました。でも、あえてそれで勝負しようと思いました。
お菓子やお店のスタイルをころころ変える事はしたくないと思ったんです。でも商売的には辛い日々でした。
ただ、「ビアンカ」で一緒に働いていた先輩からお菓子の卸を紹介してもらって助かりました。今の店に移る資金は、その卸で得た利益をコツコツ貯めたものなんです。ただ、当時は、卸は順調でも店の販売が中途半端だったんでモヤモヤした気分でした。
吉野
常に移転という事は考えていたんですね。
高橋氏
そうです。最初の店ではどんなに努力してもだめだと思ってました。本当はそうではないという人もいますが、店を繁盛店にするには、そう簡単な事ではないと思うんです。
店舗は店の広さや設備の充実なども大変重要な要素なので、店だけを改装してもうまくいくという保障はありません。
だから、理想に沿った店を別の所で新たにオープンした方が有利だと思ったんです。
吉野
店名の「エミール」というのはどういう経緯で決められたんですか?
高橋氏
「フュッセン」にいた時に森山先生と一緒にドイツに行った事があるんです。
木彫りの盛んな街でオーバーマガウという小さな田舎町の店で小さな女の子がケーキを持って微笑んでいる陶器を見つけて買ってきたんです。その時に、この陶器にふさわしい店が欲しいと思って、店名にはかわいいい女の子の名前にしたいなと考えたんです。
以前、「ビアンカ」の時に大変にお世話になった方の娘さんの名前が「エミ」という名前だったし、彫刻家や小説家にも「エミール」という名前の人が居たんで「エミール」にしました。
吉野
現在の店舗を構える時には最初の店の反省にたって色んな物件を捜されたんではないですか?
高橋氏
リサーチみたいな事はやりましたが、多くの物件は見ていません。
前の店舗で10年間営業していたんで今の店舗を含む商圏の様子は、その間につぶさに見てました。だから、今の店舗の立地を見たときには「ここなら大丈夫だ」とカンが働いて即決しました。
吉野
現在の店舗に店を構えたのはいつですか?
高橋氏
1998年です。お菓子も変えました。
所沢のこの地域は小さなお子さんをお持ちの家族の入れ替わりが多い地域なんで、ご家族で召し上がっていただけるようなお菓子にしました。前の店の売上の5倍という目標でやりましたが、目標を大きく上回るスタートでした。
その後も順調に売上を伸ばす事ができました。やはり、店の立地と品揃えは大事な要素だと思っています。
吉野
駐車場も充実していますね。
高橋氏
最初は5台分でしたが、現在は10台を駐車できます。
今は車社会ですので、店舗には駐車場はなくてはならないものです。
移転して3年経ったときに新しいオーブンを入れて菓子工場をオープンにしたんです。内部を大幅に改装しました。

吉野
オープンして3年で改装ですか?
高橋氏
はい、当時は喫茶コーナーを併設してバケットサンドやクロワッサンサンドも提供していたんですが、テイクアウトのお客様も増えて菓子工場も手狭になり喫茶コーナーの維持が難しくなってきたんです。
ですから、喫茶コーナーをやめてシュークリームの実演コーナーと菓子工場を広げる改装を行なったんです。
オーダーが入ってからクリームを詰めるというサックリした食感を楽しんでいただけるようなクッキーシューの提案を行いました。
吉野
いかがでしたか?
高橋氏
当たりましたね。シュークリームが他の商品まで引っ張ってくれて・・・人が人を呼んで大きく飛躍する事ができました。
ですから、商売は立ち止まったらだめですね。常に変化していかないといけないと思っています。
吉野
菓子職人になりたい人に何かアドバイスはありますか?
高橋氏
食べ物商売で、洋菓子店ほどお客様に喜んでいただける商売はないと思います。それは商品自体が人を喜ばすからだと思うんです。例えば、お誕生日のデコレーションケーキはそれ自体がお子さんを楽しくさせるんです。それを見ているお父さんやお母さんは嬉しくなる。だから菓子職人として自信を持って仕事をやることができるんです。
ただ、異物混入などがあったとしたら、楽しいはずのバースデーが台無しです。
それだけに絶対お客様の期待を裏切ってはならないと思います。

それから自分の目的を常に意識しないといけないと思います。うちの若いスタッフにも「何年後に自分は何をするんだ」という意識を持って生活しないといけないと話しています。自分の目標を明確に生活していると無駄な事がなくなります。
そうすると何をするにしても、自分ならどうするかとう視点で物事を観察できるようになるんです。
若いうちから目標を常に頭において物事を観察する経験を持っていると自分の店を持った時に大きく役に立ちます。
吉野
菓子職人にとつて大事な事は何ですか?
高橋氏
素直な心でお菓子を作るという事です。複雑な素材のお菓子を出してもいいんですが、お客様に伝わらない事があります。
ですから、お客様には分かりやすいお菓子を出してあげるのが大事だと思います。特定の人だけに美味しいと言われるお菓子ではなくて、小さなお子さんからご年配の方々まで美味しいと言っていただけるお菓子を作るのが大事だと思っています。
お菓子作りは鮮度や衛生面だけではなく、価格や美味しさ、安心の素材、デザイン全ての面で常に心していないといけないと思っています。
吉野
今日は、長い時間ありがとうございました。
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