田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃、熱中した事はありますか?
一条氏
昭和41年8月15日生まれ、東京都出身です。
5人兄弟で、両親は自営業だったので家にほとんどいませんでした。
どうしても小学生の頃から料理をしなければならい状況で、好きとか嫌いとかではないんですが、料理は昔からずっとしていましたね。
また、中学の頃にコーヒー豆を自分で挽いて飲んだり、コロンビアやモカの味はどうかとか、そんな事に興味を持っていました。基本的に料理は教わると言うよりも、作りながら覚えていました。
シェフ
田中
その頃、得意な料理とかは何だったんですか?
一条氏
憧れていたのが「ハンバーグステーキ」とかでハンバーグを挽肉から作るという‥‥。
やっぱり、現実からの憧れにそっていくような、手作りで玉ねぎを炒めてやってみるとか、そういう洋食の料理に幼心が夢見たものを現実に近づけようとしていたのかなと思います。
それで高校を卒業して、もっと本格的に料理の勉強をしようと思って専門学校に入ったんです。
田中
専門学校はどちらですか?また、卒業されてどちらに就職されましたか?
一条氏
東京池袋にある武蔵野調理師専門学校に1年間行きました。
それで、先生に結構、面倒みて頂いて「君はどこに行きたい?」というよりも「あんたはここにしなさい」という感じで
就職先を紹介して頂きました。
そして入ったのが目白にある「椿山荘」という結婚式場だったんです。

そこはもう料理の世界で20名くらい調理部門に新入社員が入ったと思います。
仕事場には洗い場って言うのがあるんですが、そこでビニールエプロンとズボン一丁で、朝から晩まで洗い物の毎日でした。
そんなのが朝の7時から夜の11時まで、手はもうふやけて、その当時は結構みだれてましたので、そういう所で少しずつ改良して友達とも連係を取りながら、交代で休んだりそんな工夫をしながらでしたね。

見習いですよね。現場に入れてもらえない日々が半年以上は続いてました。
ずーっと、洗い物をしていく中で繁忙期やいろいろ大変な日もあるので、そんな時だけ厨房に呼ばれて手伝っていました。
先輩たちにも優しい先輩もいるんですけど、それとは逆の先輩もいて、大きい冷蔵庫に行って大根で殴られた事もありますし、仕事が嫌と言うよりその人が怖いというのがありました。
まぁ、その中で世の中の渡り方も教えてもらったり、絶対、先輩制の中では「先輩から指示された時に絶対自分の意見なんか言うんじゃないぞ」と、「はい、でいいんだ」とかそこで教えられましたね。
田中
それでその後は?
一条氏
その後、「椿山荘の銀座店、銀座椿山荘」に移動になり料理の勉強をしました。
だから、僕はどちらかと言えばパティシエだけではなく、料理も出来るパティシエなんですよね。
田中
そこは何料理なんですか?
一条氏
そこがフランス料理なんですけど、メインがカウンターでの鉄板焼き「ステーキ」なんです。そこでステーキの何たるかを、肉の熟成から食べ頃の時期から焼き方等、全て教わりました。
その当時はバブルの全盛期だったのでお相撲さんや芸能人の方も結構来られてたんです。
その時の接待の仕方とか「舞い上がってはいけない普通に」とか、接客の方もいろいろ教わりました。

それから部署移動があって「ベーカー課」という部署があるんですけれども、そこに配属になって、そこが「パンとケーキ」を担当しているセクションなんです。
そしてベーカー課は専門職なのでそこからお菓子の道が始まりました。
それはもう希望とかじゃなくて移動で来たんですよ。3年目でベーカーに移動なんて普通はないんです。
やっぱり専門職なので入るとしても、もう1年目新入社員の頃から継続で上がっていく感じなんです。
なんでか知らないけど僕は3年目から配属になって。
もう完全に一からのスタートですよね。それはもう大変でした。

いきなり初日が早番でパンの仕込み番で7時出勤で、7時出勤と言えば1時間前の6時には来ないといけない鉄則みたいなものがあって、でも前日が移動の送別会をしてもらってて3時くらいまで飲んでて、酔っぱらった状態で6時に出社して、イースト菌の臭さに舞い上がってしまって、何が何だか分からない状態でイースト醗酵させたりしてました。
それからいろいろ上の先輩に教わって。
まあ先輩なんですけど、職歴的には同期的になりますけど、でもやっぱり先輩なので出来ないといけないので、その3年の穴埋めというのはかなり大変でした。
だから2年目くらいの後輩もいましたけど、後輩に教えてもらう何とももどかしいと言いますか‥‥。
田中
そこには何年くらいいらっしゃったんですか?
一条氏
平成9年までいたので、10年くらいですね。
ベーカーはパンとケーキの仕事でしたが。
それで最後の2年くらいに系列の「フォーシーズンホテル」が隣に出来てそこの仕事を任せられたりして、ホテルの仕事も結構大変でした。外国人シェフと言葉が通じないながらも片言の英語で共に働き、美的センスや技術を勉強しました。

文字

田中
もうずーっと東京ですよね。長崎に来られてのは何時で、どうしてですか?
一条氏
そうですね。ずっと東京にいても良かったんですけど、一番の要因は嫁が長崎出身で、長崎でお父さんがケーキ屋さんをしていると聞いて、どうせ一生情熱をかけてするなら嫁の為になるかなと思って長崎に平成9年の9月に「椿山荘」を辞めて長崎に来ました。
田中
では奥様のご実家が、お菓子屋さんですか?
一条氏
このクローバーだったんです。
その時は、東京に「六本木クローバー」というフランチャイズのお店があるんですが、そこと契約して看板と商品で長崎で展開していたんです。洋菓子、フランス菓子ですね。
長崎に来た時に思ったのは、どうして長崎で東京のレシピと物を売らないといけないのかと、お父さんもクローバーと提携を切って何かやろうじゃないかという話で、僕自身も何かやりたくて。
それで、フランチャイズの契約を切って、「ネオクラシック・クローバー」と名前を変えて、プランナーの方に入って頂いて、店名から全て一緒に関わって頂きました。
田中
クローバーとしての創業は?また、店舗数は?
一条氏
クローバーとしては、1982年が創業です。
また、「ネオクラシック・クローバー」として2004年にリニューアルしました。
クローバーとしてのお店は諫早バイパス店、本店の雲仙市、それと、長崎籠町の3店舗です。
田中
それはもう同じ時期に全店一気にリニューアルしたんですか?
一条氏
店舗として変えたのは2002年なんですが、このお店を改装をしたのが2004年だったんです。
そして長崎籠町店が2006年です。
田中
どうでしたかネオクラシック・クローバーに変わってお客様の反応は?
一条氏
六本木クローバーの頃はレシピとかも全部東京の物で、ネオクラシック・クローバーになってからはガラッと商品が変わってしまうわけですね。
リニューアルオープンした時の反響はすごかったですね。
今までの感覚と全然違うので、お客様というより自分たちがついて行くのでアップアップな状態で、今はなんとかフェアも少しスムーズにやれているかなと、やっぱり鮮度追求というのを作り手が理解するのに時間が随分かかるかなと、どうしてもスピード=鮮度とかそれが美味しさとか見た目とかよりいっそう付加価値をつけた演出が出来るのが、このオープンキッチンでやりこなせる事なのかなと。

昔は作業厨房みたいな感じだったんですけど、もう少しライブ的にしたくて。お客様との対話ですかね。
1人のお客様に最善をつくす「満足していただく」事ですかね。
本当に作り立ての美味しいお菓子作りに力を入れています。
輝いているだけのショーケースではいけないと。
本当に味のつけかたでも、少しでも違いますから、自分がそこの地域に染まらないと出せない。

最初はここに来たときは言葉の違いに慣れなくて、うまく聞き取れなくて、怒られているような感じで一時期電話恐怖症になりましたもんね。
この街に慣れるまで、3年くらいかかりました。
当初は生活から作業から何もかも違うので一人だけ空回りしているようなイメージでしたね。

田中
お店の名前の由来は?
一条氏
まず、どうしても「クローバー」というのは外せないなと。
もうクローバーというのがお店のイメージにもなっているし、
それで「六本木」を改名しようという話になりまして、いろいろと考えたんです。
僕が来る前にいろいろとクローバーをここまで引っ張ってきたシェフがいるんです。

六本木の頃から引っ張ってこられて、これから僕とシェフとでクローバーを改革していくと言う事で「昔(クラシック)新しい(ネオ)」という2人で改革していくというイメージなんです。
それで長崎蘭西菓と言ったら、「らん」がオランダの「蘭」、「す」が東西南北の「西」、「か」がお菓子の「菓」と、入れてスローガンにしてやっていこうと。
新しく変わりましたけど、昔からご愛顧頂いているお菓子は多少残しているんです。

田中
菓子職人にとって大切な事は。
一条氏
そうですね。やっぱり菓子職人にとって大切な事は、自分が幸せである事じゃないですかね。
お菓子っていうのは幸せや癒しを与えたり、そういう仕事、社会でもそういう位置づけと自分では思っていますので、やはり自分が不幸ではケーキは作れないかなと思います。
まぁ心身ともにですね。
田中
これから菓子職人になろうとしている人にアドバイスを。
一条氏
焦らず、騒がず、お菓子を作っている時だけが修業じゃない。
自分が生きている時間全てが経験などが、仕事に活かせる生きる素材がいっぱいあると思うので、無駄にせず、
無駄な事とかないと思うので、つらい事もたくさんあると思いますが頑張って欲しいです。

僕も学校に何回か教えに行った事もあるんですが、お菓子作りを教えてもらったらもう終わり、とかじゃなくて何かもう少し、
専門職になるんであれば、日常の中でもう少し出来る事があるんじゃないのかなぁ。

学校に行っているから知識があるとかではないので、自分が目標とする心ひとつで一流にも二流にもなるんじゃないかなと思います。全てが自分の成績だと思います。今日の1日だけでなくその前の364日の通信簿が今日の来店数になったり、自分が取り組んできた証が売り上げに繋がっていくし、何か物とか他のものに逃げたくなる時もありますけど、やっぱり違うかなと、思いが強ければトップにいくし弱ければ半分しかいかないだろうし、そう言う意味では僕も毎日勉強します。
教える側としてもどれだけ情熱を伝えられるかと。
田中
本日はありがとうございました。
戻る

Page Top