吉野
生年月日とご出身地を教えてください。
高木氏
1966年8月16日 東京都の葛飾区です。
吉野
小学校の頃どんな事に熱中してましたか?
高木氏
活発な子供で、外で野球ばかりやっていました。
それと、お菓子作りに熱中していました。
吉野
お菓子作りは、何かキッカケがあるんですか?
高木氏
母がマメな人で、アイスクリームやマドレーヌ、プリンとかパン、それから自家製味噌まで色んなものを作っていたんで、それに影響されたのが最初ですね。
小学4年生の時に、母が作るマドレーヌを作りたくて、
母に「自分で作りたい」と言うと「絶対ダメ!火事になったらどうするの」と叱られたんですよ。
でも、そう言われるとますます作りたくなるんです。
母が買い物に出ているときに一人でマドレーヌを焼いたんです。帰宅した母は「なぜ、いう事をきかないの」と怒られました。
私が、ショボンとしていると母が焼きたてのマドレーヌを一口食べて「おいしい」と笑ってくれたんですよ。
それからですね。お菓子作りに熱中したのは。
お菓子を作っては、家族全員で食べていました。
吉野
現実に菓子職人になろうと思ったのはいつですか?
高木氏
そうですね。お菓子は家に居るときには作っていたんですが、小学校の頃から始めた野球にのめり込んで高校生の頃は、野球やるなら甲子園に出ないとやっている意味がないと思っていたんです。だから野球漬けの毎日でした。
当然 勉強もおろそかになってたんで心配した両親が大学進学の為に勉強に専念しろと言ってきたんです。
両親としては、いい大学に入り、いい会社に勤め、定年まで勤め上げるのが理想だったんです。
その頃からかな・・・急に将来の事を考えるようになりましてね。いったい自分は将来何をしたいんだろうと考えるようになったんです。甲子園って言っても自分ひとりで頑張って行けるものでもないし・・・・プロの野球選手になるという選択肢もなかったんで、野球をやっている意味が見いだせなくて、野球にも身が入らなくなり高校2年で野球部を辞めてしまったんです。
吉野
素直に勉強を始めたんですか?
高木氏
勉強にも身が入らないんです。何となく受験勉強を始めたんですが、両親の言うようにいい大学を出ていい会社に就職してというコースにも魅力を感じなかったから、自分が何をしたいのかをずっと考えていましたね。
高校3年の夏に予備校で英文法の授業を受けながら、ハッと気づいたんです。
こんな事を覚えるより、本当に自分の好きなことをやりたい。そうだ、本当は、お菓子作りをしたいんだと、その時にハッキリ意識しました。
吉野
その時、ご両親にはお話になったんですか?
高木氏
そう思うと、もう一直線ですよ。
予備校の授業をほっぽりだして家に帰り「菓子屋になりたい」って父に言ったんです。
そしたら、「馬鹿な事言ってんじゃない」と叱られました。
それから菓子学校のパンフレットを取り寄せて父に見せ「フランス菓子を学びたい」と言ったんです。こっちの真剣さが通じたんだと思うんですが、父が一言「フランス菓子ならフランスで勉強できる学校にしろ」と言ってくれたんです。
吉野
ばんざーいですね。
高木氏
そうです。フランスで勉強できる学校と言ったら辻しかなかったんで、大阪の辻調理専門学校に行く事になりました。
吉野
菓子職人の道が開かれたんですね。
高木氏
はい。辻の大阪校からフランス校を出て、現地の菓子屋で半年間修行して日本に帰国したんですが、帰国して最初に父が言った言葉は「さんざん、遊んできただろうから、大学に行け」だったんです。
吉野
やはり、大学にどうしても進学させたかったんですね。
高木氏
そうですね。いい大学からいい会社という考えはまだ捨ててはいなかったんです。製菓学校にでも行ったら満足するだろうと思っていたみたいですが、私は「今から修業が始まるから」と言って就職しました。最初に就職したのは大山栄造シェフの「マルメゾン」です。そこで、3年間お菓子を学びました。
その後、「ホテル西洋銀座」に行くんですが・・・。今度は、母親が「大学に行って」と言うんですよ。参りましたね。
吉野
やはり、心配だったんでしょうね。
高木氏
親の気持はありがたいですが、もう自分の道を歩き始めしてましたからね。
実は、辻の大阪校に通っている時にふらっと甲子園を見に行ったんです。高校2年まで甲子園を目指していたからですね。
行ってみたら、試合がない日だったんですが、ちょうど中から管理人さんみたいな人が出てきたんで、「少しだけでいいですから、中を見せてくれませんか」と頼んだんです。
そしたら、「15分だけならいいよ」と言ってくれたんです。バックネット裏に行ってグランドを観た瞬間に鳥肌が立ったんです。
「甲子園に行きたかったなあ。たとえ行けなくても野球やめなきゃよかった」と後悔の気持が出てきたんです。
後悔ってこういう気持なんだと思いましてね。で、そこで誓ったんです。絶対菓子屋になってやるって。
もう、こんな後悔したくないって思いました。
吉野
ご両親のお気持は分るけど、菓子職人しかなかったんですね。
高木氏
はい、それと再度フランスへ行こうと決めていました。
辻のフランス校の後に半年間フランスの菓子屋で修業したんですが、日本人というかアジア人を毛嫌いするような人種差別的な扱いをされたんです。
言葉も充分ではないし、仕事も初めてですから、要領が分らないのが当然なんですけどね。親切に教えてもくれなかったんです。
店では邪魔者扱いでしたね。その嫌な思い出があったんで「マルメゾン」と「ホテル西洋銀座」で修業して、ある程度技術も付いてきたのでフランスに行って、見返してやろうと思ったんです。
吉野
リベンジですね。
高木氏
お金を貯めて25歳の時にフランスに行きました。
吉野
勤め先はあったんですか?
高木氏
ありませんでした。
師匠の大山さんやホテル西洋銀座の先輩から店を紹介してやるからという言う言葉はいただいたんですが、それを断り、働く店も決まっていないままでした。「お前馬鹿じゃないか」と言われたんですが、何が何でも自分でやってやると意気込みだけはありました。
吉野
どうでした?
高木氏
本当に馬鹿でした。
150万円貯めてパリに行ったものの、向こうは実績重視で、紹介がないとほとんど受け入れてくれなかったんです。
それでも、とにかく履歴書をフランス語に訳したものと作品の写真を持ってアポイントも取らずにあちこちの店を回ったんです。
27軒回りましたが「帰れ!」と追い払われました。
「くそっ、フランスは変わってないな」と思いました。
そんな時に、アルザスで働いている先輩から「ジョルジュ・ベルニュという店が日本人を欲しがっている」と電話があったんです。
そこの店に電話すると店のオーナーが「一度会いたいから、来い」って言うんですよ。
パリからアルザスまで5時間以上もかかるんですが、とにかく唯一のチャンスですから全部の荷物を持って押しかけまして雇ってもらうようになりました。給料は1,800フラン 日本円にして35,000円くらいです。
吉野
店の修業はどうでした?
高木氏
住み込みで、朝は4時から夜9時まで働き通しですよ。
三食付という話でしたが、出るものは店の残り物です。冬になると売り切れちゃうから、夕食がない。マダムに言うと「忙しいのが分らないの」と叱られるんですよ。
しょうがないから冷凍庫からブリオッシュを持ち出して、登山用のガスバーナーで日本から持ってきた即席味噌汁を作り、ブリオッシュを付けて食べました。本当にまずかったですね。
吉野
その後は、どうされたんですか?
高木氏
その後は、ルクセンブルグの店で働き、1年経ってコンクールに挑戦しようと思ってパリに戻ってきました。
そして、「ガストロノミック アルパジョン」で優勝することができたんです。
吉野
何で受賞されたんですか?
高木氏
飴細工の部門です。練り込んだ飴でバラの花びらのなめらかさを表現したんです。
今では「ローズ・ジャポネーズ」と呼ばれていて現在ではフランスの製菓学校で教えられる技法のひとつとなっています。
吉野
それは、凄いですね。
高木氏
コンクールは、自分との戦いです。
言葉も店も分らない中で材料調達から全て自分でこなし、作品を作り上げていかなければならないんです。
大事なのは、その過程で精神力が培われていくことです。
技術だけなら誰でも身につけることができます。5・6年で一通りの技術はマスターできますが、そこから先は、感性の差なんです。
自分なりの発想を生み出せるようにするには、考え方が大事です。言われたことをそのままやっているだけの人間は伸びない。
どうしてこうなるんだろうと常に考えて取り組んでいる人は、技術を身につけた後にグンと伸びますね。
吉野
その後、フランスでどうされたんですか?
高木氏
コンクールの賞状のコピーを持って雇ってくれる店を捜しました。
アポなしで「JCグリュポー」という店に行って賞状を見せて「雇ってくれ」と言ったんです。
その時にオーナーが「いつから来れる?」って言うんですよ。これがコンクール優勝の力かと思いましたね。
そして、次の週の朝、店に行くと、パトロンが「今日から高木がシェフだ」と紹介するんですよ。こっちが驚きましたよ。
それから人生が180度変わりました。売り上げを上げないといけないと頑張りました。
頑張った甲斐があって売り上げは着実に上がり、その分、月給も増えていきました。月で18,000フラン日本円で38万円もらいました。
吉野
最初の頃の10倍ですね。
高木氏
もちろん給料もありがたかったんですが、それよりも日本人として初めてシェフパティシエになれ、フランス人相手に売り上げを上げる事ができたのが本当に嬉しかったですね。
吉野
その後は、どうされたんですか?
高木氏
その後は、ベルギーの店から声がかかり、ヨーロッパの最後の働き場所として行きました。
行ってみて驚いたんですが、お菓子の水準が高いんですよ。お菓子の生地も面白くて美味しいしかったですね。
ヨーロッパは、トータルで4年居ましたが、手ごたえのある日々でした。
吉野
フランスへのリベンジは?
高木氏
そんな事は、いつのまにか吹っ飛んじゃいました。やはり、苦労してきた事が報われたからでしょうね。
人生は勝たないといけないとつくづく思いました。
吉野
帰国されてどうされたんですか?
高木氏
フランスから帰国後は、1995年に日比谷「レ・サヴール」のパティスリーシェフを始めました。
日比谷と虎ノ門のレストランやカフェで、フランスで学んできたものを自分のオリジナルに変化させ、タカギイズムをどんどん提案しました。
それが評判になり、テレビや雑誌の取材の申込みが殺到したんです。ただ、まだ立ち上げたばかりなので、1年間は取材に応じられないということでお断りしました。
1年後、月の半分は取材でした。その後、1999年に「料理の鉄人」に出演したからは、テレビ出演が多くて大変でした。
番組の中には、30秒しか流れないものでも何時間もかけるんですよ。あれには、驚きましたね。
吉野
ご自分の店をオープンされたのはいつですか?
高木氏
2000年に「ル・パティシエ タカギ」を作りました。
最寄り駅から15分以上も歩く住宅街の中ですんで、決して足を運びやすい場所ではないです。
ただ、フランスに行ったときに思ったのは、味で勝負できるような人気のレストランは、駅近くや大通りに面した場所には、ないんです。わざわざ人通りの少ない所に店を構えているんです。
私も、自分の味に絶対の自信がありましたから「味で勝負する」という決意からでした。
吉野
オープン当時の苦労話とかありますか?
高木氏
おかげさまで、行列が出来るほどお客様に来ていただきました。
作っても作ってもショーケースに並べるたびに売れていくんです。それが苦労・・・というよりも、恐怖でした。
せっかく来ていただいているお客様にお菓子がないものですから頭を下げるしかない状況が続きました。
スタッフも頑張ってくれましたが、製造する場所がすでに限界でしたんで、お菓子を作れる工房にできる場所を捜したんですが、なかなか近くにいい場所がなかったんですが2年後にやっと近くに見つけることができました。
吉野
それは、どこにあるんですか?
高木氏
ル・ショコラティエ タカギが、その場所です。
吉野
そうだったんですか。
高木氏
もともとフランスやベルギーで美味しいチョコレートと出会ったんで自分のオリジナルのチョコレートを出す店を持ちたいと考えていたんです。
売り場自体は、狭いですけど私のオリジナルのチョコレートを提案できる店になっています。
そこにお菓子作りの工房も併設する事にしました。
吉野
日本での最初の修行の店は、マルメゾンですが修行はどうでした?
高木氏
マルメゾンに居た3年間のうちの1年半は仕事をさせてもらってないんです。
吉野
何かあったんですか?
高木氏
私が非常に生意気だったんですよ。
辻のフランス校を出てフランスで半年間修業してきていましたから先輩たちより早くフランスで修行してきたという自負もありました。
でも、仕事ができない、基礎ができてないのにフランス帰りで動きだけは素早いヤツ。
そんな私が、鼻についたんでしょうね。先輩から仕事もらえずに配達とか販売ばかりをやらされたんです。
同期連中は、窯をやっているのを横目に悔しかったんですが、発想を変えました。配達すれば東京の地図や抜け道を覚えられる。
それと、一番良かったのは、販売です。包装をできるようになったし、お客様と接する事がとても勉強になりました。
それに、自分の店を持った時のコンセプトが明確になりました。
吉野
コンセプト?
高木氏
はい。「幸せ配達人」です。
これは、私自身のもモットーというか、お店のコンセプトです。
マルメゾンでの1年半の間、配達でお客様のご自宅へお菓子を届けると本当に喜んでいただけるんです。
店で販売していると、お客様が「かわいい!美味しそう!!」って声を出して笑顔になられるんですよ。
それを見ているだけで「ああ、菓子屋っていうのは人を幸せにするんだな」と心の底から納得することができたんです。
ですから「幸せ配達人」という言葉は、20歳の頃から変わらずに抱いているお菓子作りのコンセプトです。
吉野
高木さんってどんな状況もプラスにするんですね。
高木氏
マルメゾンでの20歳頃にお客様からいただいた笑顔というエネルギーが自分の心の中に入ったような気がしています。
吉野
マルメゾンの大山シェフから教えていただいた事はありますか?
高木氏
師匠は、怖くて、先輩もできるだけ近づかないようにしてましたが、私は、積極的に関わりを持つようにしてました。
吉野
例えば、どんな風にですか?
高木氏
デパートの催事がある時に、常に一緒にくっ付いて行きました。
デパートの催事は、夕方6時までが、忙しいんです。でも、それを過ぎると一段落するんです。
その時に、親方に普段聞けない事を質問するんです。
吉野
どんな質問をされるんですか?
高木氏
職人としての大事な事は何ですか?とか、今度の新作は、どういう時に思いついたんですか?・・・とか色々です。
駆け出しの私にも熱心に答えてくれるんです。ありがたい師匠です。
マルメゾンがオープンして30年になるんですが、長い間、お客様に愛され続けている本当に美味しいフランス菓子を作り続けています。実は、大山師匠は、2008年の4月に「マルメゾンの洋菓子」という本を出版したんです。
この本は、写真や文章で、師匠の考えかたやマルメゾンの歴史やお菓子作りのノウハウなど、なかなか得ることのできない情報が詰まっている本なんですが、それを見るとマルメゾンという店を本当に愛しているんだなと思います。
私も自分の店を20年30年・・・と老舗フランス菓子店に育て上げていきたいですね。
吉野
高木さんは、日本洋菓子協会連合会公認技術指導員ですよね。
高木氏
はい。今は自分の店などで忙しいですが、以前は、全国の講習会に出向いていましたね。
ただ、どこの土地に行っても最後に同じような質問があるんですよ。
吉野
どんな質問ですか?
高木氏
高木さんが教えてくれるお菓子は、材料費が高くなるんで高木さんの店だから売れるのであって地方の我々の店で作っても売れないと言われます。
吉野
その時に何と答えられるんですか?
高木氏
私は、同じ材料で同じ物を真似して作るということ自体おかしいと思います。
それぞれの地域には、それぞれの嗜好があるので、私が教えたお菓子をそのまま出してくださいと言っている訳ではないのです。
例えば、このお菓子の生地は、うちのあのお菓子に合うかもしれないとか、高木さんは生クリームを使ったけどうちはカスタードクリームを合わせてみようとかを「考える」事が大切なんです。
それが講習会の役割だと思うんです。
私も、ヨーロッパに渡ったとき、数々の新しいお菓子に出会い、感動した経験があります。
いつか自分のショーケースに並べるお菓子に使いたい素材や味の組み合わせをメモに書き付けたんです。
でも、それをそのまま出してはいません。
自分なりに考えて作ります。
吉野
なるほどですね。
高木氏
フランス行かなくても菓子職人になれます。フランスに行かれた事のない菓子職人で素晴らしい方々は、日本全国にいらっしゃいます。ただ、フランス行った行かないという事ではなく、行って何を感じたか、何を考えたかが大事だと思います。
私は、お菓子だけではなく、ヨーロッパのフルーツに出会えた感動や美術館に行った時の感激などひとつひとつが自分のお菓子作りの原動力になっています。
ですから、与えられたものをただ、そのままやるのではなく、自分なりに考えて、試行錯誤する事がとても大事だと思うんです。
日本に帰ってきて感じる事は、日本には、本当の意味でのお菓子文化がないと思いました。
だからそれを築きたい。お菓子好きを一人でも増やしたい。
自分のお菓子を通して、新たな食文化を発信していきたいと決意したんです。
だから、自分なりに、これまで色んな発信をやってきましたし、これからも発信し続けていきます。
吉野
若いパティシエ志望の方に、何かアドバイスはありますか?
高木氏
辻調理専門学校を卒業したので1年に1回は、学校に行って生徒を前に話をするんですが、憧れで夢を持ってパティシエになりたいというのがスタートだと思いますが、学校と現場は180度違います。
学校の場合は、お金を払って来てもらっているので先生は優しいのは当然です。
でも、現場では本物のプロになるために修行に来ているというのを自覚してもらいたいのです。
学校では、最新の器具や真新しい設備を使っているけど、現場は、衛生面ではきれいですが、古い使い慣れた器具がほとんどです。
だから、まずは物や道具を大切にするところからスタートしないといけないと教えます。
それと自分にも経験があるから言えるのですが、10代や20代の頃って精神的に迷ったり折れやすい時期ですから、自分の夢を強く持って夢で終わらせないようにしないといけないと思います。
辛い目に合うとすぐ自分だけ辛いからと他の職業を見るけど、そうじゃないんです。
私だってマルメゾンやフランスでは、自分だけ辛い目に合っている気がした時もありましたが、私も含め菓子職人をされている方々は、いつかどこかで同じような道を通って来てるんです。同じ苦しみや辛さを味わってきてるんです。
決して、あなただけではないんですとも話します。
菓子職人の修行で大切な事は、体力。それと一般常識、素直さ。
それだけ持って5年店に居れば一通りの仕事は覚えられえます。後は、自分で考える事が大切です。
吉野
今日は、長い時間ありがとうございました。