パティスリーホリ



吉野
生年月日とご出身地を教えてください。
堀氏
1969年3月11日に唐津生まれ唐津育ちです。
吉野
小学校の頃の堀オーナーはどういうお子さんでしたか?
堀氏
内向的な子供でしたが、小学校4年生の頃に担任の先生にすすめられて学校の運営委員・・・生徒会みたいなものですが、それに推薦されて放課後に集まって話し合いをしたりするようになりまして、それで少しづつですが、外向きになっていきました。それがキッカケかもしれませんがバスケットをするようになりました。
シェフ
吉野
ご実家は何をされていたんですか?
堀氏
和菓子店を営んでいました。ケーキも作っていたんで和洋菓子店です。
吉野
実家がお菓子屋さんというのはどうでしたか?
堀氏
「まんじゅう、まんじゅう」と言われてからかわれましたからイヤでした。
それにうちの看板がやけに大きかったんで、「でっかい看板」って言われてました。それも嫌いでしたね。
吉野
子供の時期ってそういう表現しかできないんですね。うらやましい気持の裏返しだったのかもしれませんね。
子供ってお菓子好きですから、お菓子屋の息子って食べたい時にお菓子が食べれるような気がしていたんでしょうね。
堀氏
そうかもしれません。そういう所はあったのかもしれませんね。
私の場合は、何も言い返せなかったんで、よけい言われたんでしょう。
吉野
将来どういう職業にあこがれていたんですか?
堀氏
そうですね・・・。小学校からバスケットを始めて中学、高校でも熱中してたんで、毎日毎日バスケット一色でしたから、
将来やってみたい仕事というのはありませんでしたけど、高校の頃に漠然と飛行機か自動車のエンジニアに憧れていました。
吉野
では、高校卒業後の進路はどうされたんですか?
堀氏
大学の工学部に入学しました。
吉野
どちらの大学ですか?
堀氏
長崎大学の工学部です。
吉野
国立ですね。理数系は得意だったんですか?
堀氏
はい、好きでした。まだそのころはエンジニアに漠然と憧れていた程度でしたし、他にやってみたい仕事もなかったんで、大学に行きながら将来の事を考えてみたいという気持もがあって大学に行くようになりました。
吉野
大学生活はいかがでしたか?
堀氏
青春を謳歌しました・・・・というよりも遊びを覚えました。
大学の1年生の時は、ひとりでアパートに住んでいたんですが、家賃の負担を少なくするために2年になってバスケットのクラブの友人とアパートを借りて一緒に住むようになったんです。そうなると部屋が友人たちのたまり場になって勉強というよりも遊び中心になってくる訳なんです。マージャンやテレビゲーム、パチンコ、夜は酒を飲んだりという毎日でした。
吉野
バイトはされたんですか?
堀氏
工事現場のバイトとかよくやりました。
吉野
よく遊び、よく学び、よく働きでしたね。
堀氏
いやぁ・・・。勉強がおろそかになっていきました。
工学部に入ったのもエンジニアに憧れていたからなんですが、それが甘い考えではないかと思えてきたんです。
最先端の技術で自動車製造の現場で颯爽と仕事をしている自分をイメージしていたんですが、自動車メーカーなどの大企業に入ると「自分が思っている職場とかけ離れた部署に回されるんじゃないか」とか「培ってきた知識とは関係ないデスクワークをしないといけないんじゃないか」とか思いはじめて、エンジニアに対する憧れもしぼんできたんです。
吉野
そういう現実はあるでしょうね。全ての人が自分が希望とする職場には入れないですよね。
堀氏
それに建築現場でアルバイトをしている時に建築作業員の方が「現場監督って言うけど本当は現場を知らないんだよな・・・・」と言っていたのを聞いたことがあって、それが気になってしまったんです。
現場を知らない監督って、そういうんが建築のプロでいいのか?とか考える訳なんですよ。
「現場」って言葉が妙に心に引っかかりましてね。
吉野
若い時分は色々と将来の事について悩む時期ですよね。
堀氏
自分もこのまま何となく大学を出て、何となく企業に勤めて会社という場所で仕事はしても、自分の能力を活かした現場というフィールドで仕事はできないんじゃないかと思ってしまったんです。そう思うととたんに勉強に嫌気がさしてきたんですよ。
今から思えば、現実を知らない甘ちゃんでしたね。現実の仕事ということをなめてましたね。
吉野
まあ、若い時期は、ありがちな考え方ですよね。じゃあ、大学に通うのもイヤだったんではないですか?
堀氏
ですから、4年生に上がれずに留年したんです。その時には本当に落ち込みました。
吉野
その後、どうされたんですか?
堀氏
大学を中退して菓子職人になろうと考えました。
吉野
菓子職人ですか?
堀氏
はい、大学を出て普通の会社に入ってサラリーマンにはなりたくない、という思いがありました。自分の能力を試せる仕事をしたかったんです。そういう職場は何だろうと考えると、父がお菓子を作っている現場しか思い浮かばなかったんです。
吉野
ご両親は反対されたんではないですか?
堀氏
父は、菓子職人になるのはお前の勝手だけど、大学だけは卒業してからにしろって言われました。
吉野
そう言われるのが当たり前ですね。それから、どうされたんですか?
堀氏
とりあえず大学は休学扱いにしてもらって菓子職人の仕事を捜しました。
姉が福岡マキシムという洋菓子店に勤めていた時期があったので、そこでパティシエをされてた方に相談に行きました。
その頃はアンテノールでパティシエをされていたんですが、アンテノールには空きがないということでした。
ただ、その方が「フランス菓子16区という店が非常に勢いがあるので、そこに直接行ってみたら」というアドバイスをいただきましたんで、帰りに16区に行ってみたんです。お菓子を買って家に帰り食べてみて、本当に美味しかったんで16区で働いてみたいという気持になったんです。
吉野
フランス菓子16区と言えば、三嶋社長のお店ですよね。
堀氏
そうです。行こうと決めたら即行動だと思って、電話したんです。その時は三嶋社長が不在で、数日後また電話して三嶋社長に菓子職人の修業をさせてくださいと言うと「面接するから店に来い」と言われました。
吉野
いかがでした?
堀氏
私は16区がどういう店かもまったく知らなかったし、洋菓子店は、みな同じもんだろうと思ってました。今から思えば笑い話ですが、洋菓子に対しての知識はまったくありませんでした。
三嶋社長は「厳しいぞ」「大変だぞ」とか・・・そういう事しか言わないんですよ。ただ、それに好感を持ったんです。ふつふつとやる気が出てきたっていうか、そんなに厳しいならここで菓子職人としてがんばってみたいという気持になりました。
吉野
大学はどうされたんですか?
堀氏
辞めました。16区に入ってから中退する決意ができましたんで・・・トータル4年間在籍はしましたが、きっぱり辞めました。
吉野
菓子職人の修業はいかがでした?

文字

堀氏
11月に入社したんですが、1年の中でも忙しい時期だったんで、毎日があっという間に過ぎていった・・・・という感じでした。
とにかく言われた事を一生懸命やっただけでした。寮に住んでいたんですが、寮と職場を往復する毎日でした。
吉野
寮には何人居られたんですか?
堀氏
先輩が4人、同期の連中が3人、私を入れ当時8人でした。食事は三食出てたんで安心して生活できました。
吉野
仕事は覚えられましたか?
堀氏
先輩たちから丁寧に教えてもらいましたんで、不安はありませんでした。
吉野
その当時は、今の16区の社屋ではありませんでしたか?
堀氏
私が入社した時は、今の社屋ではなくテナントの店でしたので、厨房が狭かったんです。皆が作業を始めると身動きがとれないほどだったんです。次の年の5月に今の社屋に引っ越しましたから、スペースにも余裕ができて仕事がスムーズにできるようになりました。三嶋社長は、仕事が終わってから寮にも訪ねていただいて一緒にラーメンを食べたり、テレビを観たりと自分らとのコミニュケーションをとっていただいたことも多かったですね。社員の我々に、ものすごく気を使っていただいているなと感じました。
吉野
16区では何年仕事されたんですか?
堀氏
3年半いました。焼き物、仕込みはだいたいやらせていただいて、仕上げの途中で辞めたんですよ。
吉野
何かやめる原因はあったんですか?
堀氏
16区に入社して3年間は寮生活でした。その後、自分でアパートを借りて生活したんですけど、ひとりで住むようになると、今までの3年間わき目も振らずにやってきた緊張の糸がぷっつりと切れたような気持になったんです。
吉野
菓子職人としての不安や迷いが出てきたんですか?
堀氏
そうですね。三嶋社長は仕事に関しては厳しい方ですから、よく注意を受けました。厳しく注意される事って菓子職人なら、だれでもが経験している事です。ただ、私の場合は、注意される事で自分が情けないやら、ふがいないやらで・・・このまま菓子職人としてやっていく自信をなくしてしまったんです。それで仕事を無断で欠勤するようになったんです。
吉野
今までわき目も振らずやってきて、ふっと不安にかられるってことありますよね。
堀氏
はい、当時は、どうしようもなかったです。ただ、このまま欠勤している事もいけないので、勇気を振り絞って三嶋社長のところに行きました。めちゃくちゃ怒られるかなと思っていたんですが、自分の話にじっと耳を傾けてくれて「うん。そうか。分かった。しょうがないなぁ・・・」と優しく言ってくれたんです。
本当に申し訳なかったですね。
吉野
そういう時は休養も必要ですね。 その後は、どうされたんですか?
堀氏
アパートを借りて生活してたんでパスタ屋でアルバイトをしました。
そんな中途半端な生活をしてきた時に16区の先輩から声をかけていただき神戸の洋菓子店を紹介していただいたんです。
吉野
ありがたい先輩ですね。
堀氏
本当にありがたかったですね。
神戸の洋菓子店に半年勤めた時に、父親が「実家に戻って店をやらないか」と言ってきたんです。
両親には本当に心配をかけていたんで、唐津に帰って心機一転、頑張ってみようという気持になり27歳の時に実家に帰りました。
吉野
どうでした、お父様と一緒の仕事は?
堀氏
父が和菓子を作り、私が洋菓子を専門に作りました。父が作っていた洋菓子を少しづつ私の洋菓子に切り替えていきました。
店自体が昔ながらの和洋菓子店だったので売上は厳しいものがありました。ただ、こんな古ぼけた店にもお客様が来ていただけるんだと妙に関心しました。ですから、もっと美味しいケーキを食べていただこうと自分なりに工夫して意欲的にケーキを作りました。
吉野
お父様とは何年間一緒にされたんですか?
堀氏
7年間です。けっこう長い間一緒にやってきたんで自分ひとりでやりたいという気持になってきました。
現実問題、機材や道具も新しいものがなかったし、店舗が古かったんで、それもどうかせんといかんなぁと思っていたんです。
そんな時に16区でお世話になった先輩の廣瀬さんの店に相談に行ったんです。
吉野
福岡県の大野城市にあるペイバスクという洋菓子店ですね。
堀氏
はい、そうです。私が唐津に帰ってきて6年くらいして廣瀬さんがペイバスクというお店をオープンする時に声をかけていただき手伝いに行ったんです。それがキッカケで三嶋社長を始め、先輩方や同期の連中と久々に会うことができました。16区に迷惑をかけて辞めていたので、ずっと気になっていたんです。私が菓子業界に戻るキッカケを廣瀬さんに作っていただいたんです。
吉野
どういう相談をされたんですか?
堀氏
やはり、父とこのままやっていていいんだろうかという事を悩んでいたんで、それを相談しました。
吉野
何と言われましたか?
堀氏
そうですね「お前自身がお父さんと膝詰めで話し合わないといけない事だろうけど、俺なら独立して勝負してみる」という意味の事を言われました。
吉野
堀オーナーも独立の踏ん切りができたんですか?
堀氏
自分は長男でもあるし、父と同じ道を歩いている。菓子屋を継ぐということから言えば独立するのはどうなんだろう・・・という気持もがあったのは事実です。でも、廣瀬さんのお店から帰ってきた時に意外な話が舞い込んでいたんです。
吉野
どういうお話ですか?
堀氏
洋菓子店に最適な居抜きの物件の話でした。
吉野
まさに「独立しなよ」という事ですよね。
堀氏
「やらないかんやろ〜絶対やれ!」ということなんだろうなと運命みたいなものを感じました。
それから条件面で何とか折り合いがついて開店準備を本格的に始めました。
吉野
オープンはいつですか?
堀氏
廣瀬さんに相談に行ったのが4月頃で、店をオープンしたのが7月ですから、3ヶ月ちょっとで店をオープンしました。
2004年7月15日です。
吉野
どうでしたオープンは?
堀氏
不安だらけのスタートでしたが16区の先輩方に来ていただいて、無事に開店することができました。
何から何まで先輩たちにやって頂いたようなものです。
吉野
堀さんは良い先輩方に恵まれていますね。
堀氏
本当にありがたいと思っています。自分は、わがままで甘ちゃんで無責任でどうしようもない人間だけど、それでも思ってくれる手助けしてくれる方々がいますので、本当に感謝してもしきれません。
吉野
7月オープンから売上はいかがでしたか?
堀氏
8、9、10、11月と売上は横ばいでした。1日これくらいかな〜と思っていた売上よりも2〜3万円多かったんで安心しましたが、経費が予想よりも出て行ってたんで少し切り詰めないといけないなと思いました。
そういう時に12月に入ってRKBラジオで取り上げていただいたんです。それから、その流れでテレビの「探検九州」に出たんです。そしたら、反響がもの凄くて・・・売上が急激に伸びたんです。特にホリロールが人気になって作っても作っても足らない状態が毎日続きました。その後は、順調ですね。テレビの影響は凄いです。

吉野
そうですね。
でも商品がしっかりしていないとテレビの影響といっても最初だけですぐに終わってしまうものですが、それからも売上が順調という事は商品がしっかりしていたという事だと思いますよ。
堀氏
ありがとうございます。常に勉強は欠かさずにやっています。
16区のOB会や洋菓子協会の講習会には積極的に参加していますし、お菓子作りや店作りの為に先輩方の店に見学に行って参考になるものを吸収して、自分の店で応用しています。
今まで三嶋社長や先輩方、また家族に迷惑をかけてきた分、これからは感謝の気持でやっていこうと心から思っています。
良い材料を仕入れて美味しいお菓子を作って、できるだけお安いお値段でお客様に食べていただきたいと思っています。
吉野
これからどういう店作りをしていきたいですか?
堀氏
修業させていただいたフランス菓子16区は高級感のある洋菓子店です。逆にうちの実家は駄菓子屋って雰囲気の店でした。
ですから、16区の技術を活かしたお菓子を手軽に提供できる庶民的な店にしていきたいですね。
子供さんがひとりでも買いにこれる親しみやすい店を目指しています。
吉野
菓子職人にとって大事な要素って何ですか?
堀氏
誠実さです。ウソをつかない事です。何かごまかそうとすると商品にも出るんです。三嶋社長から教えていただいたんは、その事です。自分の店を出して、その事が本当に大切だって事にやっと気付くことができました。
16区で働いていた当時は、自分も一生懸命やっていたんですが、それでも三嶋社長から注意されるので、「これ以上何をやれっていうんですか!!」という思いになっていました。三嶋社長は「当たり前の事」を「当たり前にやれ」って言われていただけなんです。美味しいお菓子をお客様に安心してご提供するには「当たり前の事」を熱心に真剣に心を配りながらやらないといけないんです。何か事故があるとそれで全てが終わります。
吉野
建設は死闘、破壊は一瞬ですね。
堀氏
そうです。本当にそうなんですよ。店を経営するようになってやっと分かるんです。
吉野
菓子職人になる人に何かアドバイスはありますか?
堀氏
お菓子作りは経験が大切な部分が多い仕事なんで、その時に納得できない事も多いんです。
それでも、言われる事をとにかく素直にやってみる事が大事ですし、素直な気持でやり続ける事が大切です。
お菓子作りで1日が終わったという時期が4年か5年は絶対必要です。
吉野
堀オーナーだからこそ、そう思われるんですね。
堀氏
そうです。当時三嶋社長が私を一人前の菓子職人にしたいという想いが分かりませんでした。そういう熱い想いを素直に受け止めることができませんでした。私自身は、本当の意味で素直ではなかったんです。
どういう業界でも理屈ではなく経験してからではないと理解できない物事ってあると思うんですよ。特にプロの菓子職人にはスピードや正確さが要求されますから、言われて即対応できる素直さが必要です。
今の私には、感謝しかありません。こんな男でも一人前の菓子職人にしていただいたんですからね。
後は恩返しですね。もっともっと成長して恩返ししたいですね。お客様を含め私の周りの方々に喜んで頂きたいと言うのが今の気持です。
吉野
今日は、貴重なお話を本当にありがとうございました。
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