田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃、熱中した事はありますか?
市原氏
昭和33年9月25日出身は大分県速見郡日出町です。
とにかく友達と放課後、山に行ったり、果物採ったり、
基地作ったりしていつも遊んでました。
あと小学校から中学校にかけて町の道場で
空手をやっていました。
趣味は音楽が好きで、洋楽では外国のロックとか、
中学とかではミュージックライフとか取ってましたもんね。
あと、バンドもして、音楽はずっと好きで、少ない小遣いでLP買いまくって。オーディオとかも好きで、自分でスピーカーを作ったりとかすごい好きでした。
田中
高校を卒業されてからは?
市原氏
別府の「ニュードラゴン」に6年、その後はフランスに2年、それから「フランス菓子16区」に5年、その後、独立しました。
田中
結構、長い修業時代を過ごされたんですね。最初の修業の「ニュードラゴン」ですが、どうでしたか?
市原氏
そうですね。独立したのが36歳ですから長いですね。本当言うと、大分で一度、就職したんです。
和菓子の方に半年くらい居て、その当時、ニュードラゴンのお菓子がすごく美味しいと、いろんな人から聞いたりして、知り合いからニュードラゴンさんに面接出来るか聞いてくれて、それがきっかけで面接してもらい、ニュードラゴンさんで初めて洋菓子を勉強させてもらったんです。
その当時は、作るのが社長と僕だけで、4年間ほぼ2人で作ってまして、だからマンツーマンですごく勉強になりました。
あとは奥様と近所のパートさんが2人くらいいただけでした。
田中
やっぱりニュードラゴンさんは有名だったんですか?
市原氏
有名でしたね。
もう知る人ぞ知るです。今で言う隠れ家的菓子屋と言いますか。
だから口の肥えている人は知っていたんです。でもその前はかなりの人数でやっていたんですが、少し多すぎたみたいで一時期、人を減らしていた時に僕が入ったんです。
田中
それではニュードラゴンさんで基礎を築かれたという事ですよね。
市原氏
そうです。
でも社長と僕だけだったので、最初の数ヶ月は6時くらいに上がっていました。
それから一度、新聞に出て、そこの編集長さんがお客様で、新聞に載って、もうそれから7時、8時、9時、10時、11時みたいになって、休みもなかなか取れない時期もありました。だから、みっちり勉強させて頂きました。
田中
それからフランスに行かれたんですね。フランスに行こうと思われた理由は?また、フランスはどうでした?
市原氏
ニュードラゴンさんで3年くらい経って、いつの間にか自分はどっぷりお菓子にはまったんです。
その頃、奥様に「ヒデさん変わったね」って言われたんです。
「は?」と聞き返したら、「だって掃除が変わった」と言われて、結局、今までは丸く掃いていて、テーブルも軽く拭いていたのが、四角く掃き出したんです。だからそれからもう毎日のように・・。
それでニュードラゴンにいるとき業界紙をいつも読んでいて、フランスの菓子屋とかの記事で出ていて、もう30年前ですから、すごく興味を持ちまして「本物はどんなんだろう」と。
そして、ニュードラゴンを辞める1年前に1年後に行きたいという事で、1年間フランス語をベルギーの方に習いに行って、コツコツ給料貯めて、その頃、全然知り合いでもなかったんですが、フランス菓子16区の三嶋オーナーに手紙を書いて、3回程、相談に行っているんです。
フランスに行きたくなった時に、フランスに行ったことのある人に話を聞きたくて、16区の三嶋オーナーの事を本とかで知っていたからですね。僕がフランスに行ったのが28歳の時なので、16区ができて4年目くらいの頃です。
そしたら色々電話番号とかも調べてムッシュがわざわざ電話して来てくれて、「いつ来てもいいけど連絡してからじゃないと自分も出ている時があるから」と、電話を頂いて、それから相談に行きました。
色んな事情を聞いて、ムッシュがニースのお店に紹介状を書いてくれたんです。
僕がフランスに行ったのが8月で「その時期はバカンスで閉まっているぞ」と言われて、行ったら案の定閉まっていました。
そしてニースの隣町に日本に講習で来ていた人がいるのを思い出しまして、まだフランス語が話せないので辞書引きながら手紙を書いて、そこでまず1年働きました。
行く前はムッシュから、「レシピがどうとか、そこまでたいした物はないぞ」と、もう日本にはたくさんの諸先輩が行って帰って来ているから、「ただ食べて来い。それと歴史とか文化とかそういうものを感じて来い」と、つまりフランスの空気をいっぱい感じて来いと言われました。最初は「俺の立てた生クリームをフランス人が食べたー!」みたいな感動はありましたよ。
あと糸を引くような甘いシロップとかもありました。
田中
感覚的には日本とは違いますか?
市原氏
全然違いますね。
仕事の流れから扱うものから、向こうではクロワッサンとかも当たり前に作っています。
苺なんかも本当に少しの季節しか使わないんですよ。
フランスに着いてすぐに「ピスタチオのアイスクリーム」を食べたんですけどめちゃくちゃ美味しかったですね。
やっぱり食べ物は美味しいなーって思いました。
20代になって日本ではトマトは美味しくないと思って嫌いになったんですけど、フランスに行ってトマトが好きになりました。
美味しかったですね。全然違います。
素材としては、僕がいたのが20年近く前で、フランスではその季節のフルーツをふんだんに使っていました。
焼き菓子の焼き色にもビックリしたし、もう「焦げてるじゃないか!」というほど焼いていたり、アーモンドはよく焼かないと香りが出ないとか、ことフレッシュフルーツに関してはその時期その時期の物しか使っていかないというやり方です。
だからフランスに行って基本が見えました。
手作りの部分だとか、もちろん全部じゃないですけど、本当にお菓子作りの基本がすごく分かりました。
とにかくお菓子作りに手間を掛けていたんです。
田中
フランス語はどうでした?
市原氏
フランス語は半年経ってから急に耳に入りました。
一応、1年間、文法習ってからフランスに行ったので、行った時は全然ですよ。本当に。
どこ行ってもそうなんですが、研修を含め4件行ったんですけど、必ず1件にひとりは優しいやつがいましたね。
粉を広げてフランス語の綴りを書いてくれたり、それでだいたい分かるんです。
英語と近い言葉なので、優しくて色々教えてくれる人がどこに行ってもいました。
それで半年位から聞いて大体分かるようになって、2年後帰る頃には仕事場ではまったくフランス語で不自由はなかったです。
ただ、食事とかで職場とは違う単語や文章での話しになると、もう分からないですけどね。
田中
それでフランスで2年間勉強されて、それから帰国されるわけですね。
市原氏
結局、中央で働きたいというのがあったんです。
帰る前にもフランスのシェフに紹介してもらった所や他にもいろいろと仕事先を探していたんですが、行く所行く所で「一生懸命やりたいなら、まず三嶋さんに相談した方がいいんじゃない?」と言われました。
そうそう、ひとつ、フランスに行く前に自分の部屋に「何年までにフランスに行くか、16区で働く」が目標だったんです。
それでフランスから帰って来て、東京のホテルに知り合いがいたので、泊まらせてもらったりしながら、東京のお店を食べ歩きしたりして、そこでいろいろお店のシェフからも「三嶋さんに相談してみたら?」と言われて、東京から直接でっかい鞄背負って16区に行ったんです。
田中
そこで「三嶋さんに相談したら」と、言う事でもう直接入られたんですか?
市原氏
そうです。ムッシュが「おまえ来たいのかちょっと考えてみよう」と言う事で、とりあえずは、まず一度、家に帰って、三嶋さんも社内で検討してくれて、その決まる間は僕も実家に居て、その後、決まって、じゃあいつから入社という事なりました。
ムッシュとしては「新卒だから」とか「中途だから」とかいうのはなかったと思います。
田中
それで5年間いらっしゃったんですね。16区では基本的にはどういったお菓子を?
市原氏
16区では、最初に「商売したいのならまず店をやれ」と、9ヶ月間店頭に出させて頂きました。
店が9時に開くので、それまでに準備してそれから店に出て、接客を9ヶ月間しました。
店が閉まってから包材の仕入れをしたり、お店の方が終わったらまた厨房に入って、営業時間の間は全部接客です。
でもそれが本当に全部、今の自分の「財産」です。
やっぱりムッシュの言う通りですね。
その頃は「お菓子作りたい!」という気持ちが強かったですが、本当に店頭での接客をやっていたから今こうして店をやれていると実感しています。だから店の子達にも言っていますもんね。
本当にそれまでは厨房中心の横着な菓子作りしかしていなかったと思います。
お菓子をつくるよりキツかったですよ。でもすごい活気がありました。
田中
その後、お店を出される訳ですが、自分の中では決めていたのですか?
市原氏
いや決めてないです。
16区に入った当時は「いつか店したいなぁ」くらいの気持ちでした。16区に居た頃に、妻と出会い結婚して、子供が生まれまして、その時に子供の事とかを考えた時に「緑に囲まれている所で商売したいなぁ」とうっすら思い始めて、独身の頃は市内でお菓子屋をするんだと考えていましたけど、子供が出来てからやっぱり変わりました。
自分が子供の頃、遊んだ環境とかが良かったから、田舎でお店をやりたいと考えるようになって。
私の故郷で独立をする決心をしました。
田中
そこが最初のオープンですね。オープン当時はどうでしたか?
市原氏
そうですね。
1995年の6月です。今あるお店のすぐ近くのテナントでした。
スタートは4人で、僕と兄と家内と販売の子でした。
製造は基本的には僕1人でやっていました。
兄はその頃、別の仕事をしてる中、手伝いをしてくれて、作るのは自分で、焼き物も夜やったりとか、その頃、睡眠時間がだいたい毎日3時間くらいでした、その後だんだんお客様も来て頂けるようになりました。
その頃のメインの商品は、「ロールケーキ」で、とにかくショートケーキとかモンブランとか、わかりやすい物は絶対置こうと思ってやりました。そこで、8年半営業しましたね。
田中
8年半後にここに移転されたんですね。独立店舗で、ここの場所はどうして決まったんですか?
市原氏
なかなか良い場所がなくて、丁度ここが区画整理地域だったんです。
それでなかなか売り地もないし区画整理地も大きすぎる所ばかりで、到底個人店が出れる場所ではなかったんですが、たまたまそんな中、ここが見つかって、ムッシュにも見てもらって「8年半やっているお店ならここの奥まった所でも大丈夫だろう」という事でここに決めた訳です。
それで、2004年の11月にリニューアルオープンしました。
田中
店名の「パニエ」に決めたのは?
市原氏
お菓子につながる部分で言えば、フランスではパニエに関わるお菓子が沢山あるんです。
「パニエ」は「バスケット」という意味です。
それでバスケットを蒸したような感じで「パニエ○○○」というお菓子があったりですね。
そういうお菓子がフランスでは沢山ありました。
それとバスケットにお菓子を沢山詰めるような感覚と、覚えやすい感覚です。
あまり難しい名前にはしたくなくて。
田中
菓子職人にとって大切な事は。
市原氏
食べてる姿を思い浮かべて、お菓子を作るという事、やっぱり気持ちを込める事でしょう。
お客様の言葉で印象に残っている言葉なんですけど、修業時代に、直接お客様が僕に「この前のは綺麗に出来ていたし美味しかったよー!」と言ってもらえて、それから食べるすがたが思い浮かぶようになりました。
だから自分が作ったものが全部気持ちを込めて食べてもらっているんだなって、それからすごく大事に1個ずつ、1台ずつ、1作業ずつするようになりました。
そのお客様の言葉が、仕事に気持ちが入り出した本当のスタートですね。
田中
これから菓子職人になろうとしている人にアドバイスを。
市原氏
仕事でも遊びでもアルバイトでも勉強でも、とにかく目の前にある事を一生懸命やって下さいという事ですね。
とにかく全力で一生懸命やれば、未来は開くし、人は可愛がってくれると思います。
田中
本日はありがとうございました。