田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃はどんな事に熱中していましたか?
松本氏
昭和29年3月2日宮崎市出身です。
近くの神社で遊んだり、川で釣りをしたり泳いだり、よく遊ぶ子だったと思います。

中学、高校ではバレーボール部に所属してました。 ちょうど高校の頃は「ミュンヘンの道」があった頃だったと思います。6年間やった経験は大きかったですね。

先輩から肉体的、精神的にも鍛えられたり、今でも通じるものを勉強できたと思います。
シェフ
田中
お菓子の世界に入るきっかけは?
松本氏
中学校の頃に進路を決める中で、どういう高校に行くか悩んでいた時に、父が「じいちゃんが菓子屋をしていたが、戦時中に戦災にあって、自分が継げなかったからお前が継ぐなら応援するよ」と言った言葉でした。
それで、宮崎の商業高校に行きました。進路を左右したのは、やはり父の助言でした。
田中
絵が飾ってありますが、松本オーナーが描かれたんですか?
松本氏
そうですね。高校の頃、絵を描くのが好きで、お店にも、自分がフランスに行った時に描いた絵を少し飾っています。
絵は今の仕事に共通する所がありますね。
田中
それでは高校を卒業されてどうされたんですか?
松本氏
東京の菓子屋に修業に行きました。
もう30数年も前ですね。そこで5年間お世話になりました。
田中
東京の修業時代ですけれども、思い出などは?
松本氏
たいした思い出はないですけど、新宿が近かったので、夜な夜な遊びに行って朝まで遊んでいました。
住み込みで働いていたので、親方の部屋の前を通るわけです。見つからないように帰るのが大変でした。
ただ遊びに行っていたのは休みの前日なので、普通の日はやっぱり朝から夜中まで仕事をしていましたので、
それが唯一の楽しみでしたね。
田中
修業としては初めて行かれるわけですよね、どうでした最初は?
松本氏
まったく知らない世界だけど、違和感はなかったですね。
先輩ともいろいろありましたが、それはもう要領良く、ポジションも抜かせて頂いて、そのためにはレシピを暗記してその結果、人より早く計量できたりして、だからレシピの暗記は結構しました。

文字

田中
5年間という事は、だいたいの事は勉強されたんですよね。
松本氏
ええ、仕上げと焼き方が大切ですけど、焼き物は結構やりました。
ただ、さっきの思い出じゃないんですが、昔のオーブンは今みたいにマイコン制御じゃなかったんです。
だからガチャンと入れたら温度が上がっていくタイプで、一度、急な注文が入って「オーブン入れとけ」と言われて、忘れてしまい寝てた事があるんですよ。
そうしたら当たり前ですけど、そこに入れていたものが、もう真っ黒になって、寝ている時に何か焦げくさいなあと思ったら「ああ!窯入れっぱなしや!」と気付いて、もう250から300℃くらいまでになっていて、中に入っていたのがメレンゲのお菓子だったんですが、もうヤバイと思って、窓を全部開け換気扇つけて、そんな失敗も入った当初しましたね。

今はオーブンが自動制御ですから、絶対そういう事はないんです。
忘れて商品を焦がしても温度はそれ以上は上がらないし、ブザーがあったりとか、もうロボットと同じですね。
全部教えてくれます。
昔はアナログ式なので常に温度は上がりっぱなしなのでそれを頭に入れて置かないと、いつも窯・窯・窯。
今はタイマーで音が鳴らないから焼けてないとか、オーブンに頼りきってしまって、そうじゃないと思うんですけどね。

微妙な「カン」と言いますか、焼き具合が、その季節その日その時の乾燥状態とか湿度とか、空気の温度とかも違いますから、タイマーに頼ってしまうと微妙に違ってくる。
そういった意味では昔の職人さんは「カン」も養っていたんです。
田中
そうですね。「カン」も職人の技みたいなものですね。それで、5年して、宮崎に帰って来られてたんですか。
松本氏
そうです。東京での修業中に父が亡くなりましたので、急遽帰って来て、宮崎のお菓子屋さんに勤める事になり、10年くらい大手の菓子店に勤めました。
そこでは、10年の間に洋菓子のチーフになり、28歳の頃には和菓子、洋菓子全般を見る工場長になりました。
そうなると総括的に仕事の流れや、人の管理とか見ないといけないというのもあります。
そういった意味で、実際自分がお店をして役に立った部分も多くあります。
田中
宮崎のお菓子屋には結構長くいらっしゃいましたね。その後、ご自分でお店を出そうと思われたんですか?
松本氏
家庭もある中で、資金も貯めないといけないから10年かかりましたね。
今のお店の前に工場がありますが、その店がオープンしたお店なんです。
最初にお店を出した時は34歳です。1988年3月で自分の誕生日の日にオープンしました。
もう20年前になります。
田中
オープンの時は何人から始められたんですか?また、オープン当初はどうでした?
松本氏
最初は一人からです。
奥さんとパートの人に少し手伝ってもらうくらいでした。
あの当時、洋菓子専門店というのはそんなにはなくて、良かったと思います。
田中
最初オープンされた場所なんですが、ここに決められた理由は何かあったんですか?
松本氏
前の会社の通勤の道だったんですよ。また、文化的な施設もある街で気に入ってたんです。
市外から市内に抜ける道で西日の当たらない場所にちょうど空き店舗があって、車も3台くらい止まるスペースがあり、交渉したら金額も納得のいくものだったものですから、これはちょうど良いなあと思って決めました。
その後、2003年に同じ敷地内ですけど、今の場所に移りました。

田中
お店の名前の由来は何ですが、「リューヌ・ドゥ・プランタン」という名前は?
松本氏
フランス語で「リューヌ」は月、「プランタン」は春。
だから「リューヌ・ドゥ・プランタン」は「春の月」という意味なんです。

初代、松本茂太郎が大正5年に、今の市役所前に「春月堂菓子舗」を創業して、後に戦災で消失してしまいましたが、この「春の月」というルーツを大切にしたいという想いで「リューヌ・ドゥ・プランタン」にしたんです。
田中
菓子職人にとって大切な事とは。
松本氏
職人である前に、人として当たり前の事が当たり前に出来る人間である事。
そうした中で研究心や創造力をもって遊び心も持ち合わせて欲しいし、経営的センスも大切と思います。その中には原価意識を常に持っておく事ですね。最後に凡事徹底!!
田中
これから菓子職人になろうとしている人にアドバイスをお願いします。
松本氏
菓子職人だからと制約されると、どうかと思うけれど、これは全てに共通する事と思います。
菓子職人と菓子屋経営では違いはあると思いますが、何にしろ目標さえあれば、それに向かって人は進んで行く。
「なろうかな〜」じゃダメ、「やる」という意識がしっかりしていないと、「職人」にはなれないと思います。
職人ってもっと崇高なものだから。
だから、明確な人生目標を作り、実践する事が大切だと思います。
田中
本日はありがとうございました。
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