田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃はどんな事に熱中していましたか?
霜上氏
1971年4月20日生まれ、出身は熊本県玉名市です。
小学校の頃に熱中した事は、プラモデル作りですね。
あとは、学校から帰ると遊びに外へ、回りに山や川がある環境で、川では魚釣り、山では基地作り、また、自転車で遠くまで遊びに行ったりしていました。
とにかく、休みの日は朝から暗くなるまで泥んこになって友達と遊んでいましたね。
田中
お菓子の事を意識し始めたのはいつ頃ですか?
シェフ
霜上氏
意識したのは、遅くて高校3年の夏でした。
本当はですね、祖父の時代から、この場所でお菓子屋をしていて、2代目の父の代になってからは、父は職人じゃなく、経営者になったんで、僕もそこまでは、菓子職人になりたいとは思っていませんでした。
しかし、高校3年の時に祖母が亡くなる時、今では真相はさだかじゃないですが、最後に交わした言葉が「あとは頼んだよ」と言われ、そこから自分の中で、はじめてお菓子の道に進もうと思ったんです。
僕の中ではいずれは継ぐのかなっていうのもあったし、お店の事をやってくれって事なのかなぁと思ったんです。
田中
その事はお父様には話されたんですか?
霜上氏
「お菓子の道に進もうと思うけど」と話しました。「そうかそうか」と喜んでくれたのを覚えています。
それから製菓の学校がないか、いろいろ探しました。
田中
それで、製菓の学校はどこに決められたんですか?
霜上氏
東京に絞って探しました。
その時に見つけたのが、2年間学べる東京の製菓学校です。
最初の1年間は順調だったんですけど、1年の秋からケーキ屋さんでバイトを始めて、そこはケーキ屋さんの奥がお酒も出る
レストランだったんです。
それで、夕方から入ってお店が閉まるのが夜中の12時、片付けをして終了するのが夜中の1時でした。
そこにいたマスター夫婦の息子がたまたま同じ年だったんですね。
その息子の友達も同じ年で、当然話も合うし、それで遊んでばっかりで、学校に行かなくなってしまって、2年の夏の時点で卒業できないという話が実家に連絡が入ってまして、当時、高校を卒業して、美容師として上京していた友人が僕に連絡がつかないからと・・両親が友人に連絡をしていて、その友人から「お母さんが心配しているよ」と言われたんです。

そこで、たまたま、そのお店の常連さんが、熊本出身で外務省の飯倉公館に勤務の方で、そこはいろんな外国の要人が来る時に会議や晩餐会とかやる場所でもあるんです。当然ホテル関係にもコネクションがあるわけです。
その方が僕に「ホテルとかに興味ないの」と言われたんですが、その頃は何も知識がないし、「有名ホテルに行けるぞ」と言われて、本当に興味本位で話を聞いて、その事を両親に言ったら、「おまえ、どんなつもりで学校に出したと思ってるんだ。まして卒業してなくて、もってのほかだ」って猛烈にしかられたんです。
それで、その話はなしになってしまいました。今、思ったら当然なんですけどね。

その時にそのまま行っていたら、今の僕はないと思うし、その辺で、いろいろ紆余曲折があって、そこで心を入れ替えたっていうか学園祭も実行委員をやって、ようやく学校の恩赦的部分もありながら2年間で卒業できたという事です。
同級生のみんなは夏から就職活動をするのに、僕は3月になってから、やっと学校から推薦が出たんですよ。
田中
そうですか、卒業するまでが大変だったんですね。それで、卒業されて何処に入られたんですか?
霜上氏
面接に行った所が世田谷にある「成城アルプス」という所で、当時から有名店で、僕はそんな事も知らずに、
学校の求人票を見て「先生ここに行きたい」と言ったんです。
「学校に来ない奴が、厳しいのに行ける訳ないだろう」と言われたんですが、とりあえず面接だけでもという事で行かせてもらいました。面接に行ったのが、3月3日だったんです。社長に面接して頂いて、その場で採用と言われたんです。
それを学校に報告すると、びっくりして、その時に言われた事は「学生気分のような態度だと当然、勤まらないからな」と言われました。
田中
どのくらいの期間いらっしゃったんですか?また入社初日はどうでしたか?
霜上氏
7年間いろんな事を勉強させて頂きました。
入社の前日に人事を担当されているチーフの方とお話をして、「この業界はとにかく縦社会で、先輩、上司、社長の言う事は絶対だからね」と
先輩がカラスは白いと言ったら白なんですよ。いざ入ったらそういう事なんだと思いました。
今でこそ、この業界は女性も多いけど、当時は10数名全員男性ばかりで、そんなこんなでドキドキしながら初日も終えて、
2日目も頑張って行こうと決めていたら1時間半寝坊したんです。僕は同期もいなかったし、当然携帯もない時代だったし、電話があっても入ったばかりの後輩の電話番号を知っているのは社長ぐらいですよ。
当然電話も掛かってこない。今日で駄目かなって思いながらでも、恐る恐る行くと、逆に大遅刻過ぎたのが良かったと思いますけど、入った瞬間に全員から大爆笑されて「よかったよ〜辞めたかと思ったよ」と言われて、それで緊張がほぐれたんです。

同期もいない、凄く厳しいところに入ったなぁと緊張した一日目だったんで、その事でちょっと気持ちもほぐれて、だからって仕事が楽とか当然なかったんですけど、それによって、なじめるきっかけになったんです。
遅刻は駄目ですけど、良かったかなぁと思いました。
田中
7年間は長いと思いますが、どんな修業時代でした?
霜上氏
分かってはいたんですが、当然、最初の一年というのは、洗い物とか、雑用とか、十数人分の昼と夜の賄いもやっていました。
昼と夜は仕出屋さんからおかずだけが入ってくるお弁当箱が来るんですね。だから毎日、味噌汁とご飯を炊かないといけない。
その準備をバタバタの忙しい中で、ちゃんと時間通りにやらなくてはいけないし、買出しもあるんで一日中走りぱなしでした。

朝はトーストなんですけど、最初から切ってある食パンではなくて切ってない食パンでした。
今日は何人分とか、それを毎日切らなくてはいけないんです。急いでいるんで、当然、薄くなったり斜めになったりしました。
それをしかられるんです。
社長の考えとしては、「パンぐらいきちんと切れよ」「同じ幅揃えろ・・じゃないとケーキなど到底切れない」という事だったんです。
その中にもちゃんとした意味があったんです。賄いを作るというのも、なんでこんなにバタバタしてるのにやんなきゃいけないと思うかもしれないけれど、結局、与えられた時間はみんな一緒じゃないですか。
一日は24時間。その中でどれだけ有効に時間を使うか、頭を使わなくちゃいけないという、それをする事によって、時間を管理できるようになるんですね。
だから、一年生はそこから始まるんです。そこで、時間を見つけて先輩の作業を見たり、教えて頂いたりしていました。洗い物ひとつにしても早く終わらしてしまわないと、いつまでたっても「お前これやるか」という話にならないんです。
田中
仕事で辛い、辞めたいと思った事は?また楽しかったことは?
霜上氏
最初の1〜2年は、悔しい事が多かったですけど、不思議と辞めたいとは思わなかったですね。
当然、男ばかりの世界だったんで、どの世界もそうだと思いますけど、十数人もいれば合わない人もいるわけで、
でも、その中でクリスマスだけは、みんなが毎年ひとつになれる。その瞬間が僕は凄く好きで、一年生の時に感動して、先輩も、ふだんは喧嘩してるのになんでこんなに仲良くやっているんだろうって、みんなが一丸となっているのが分かって、忙しい時ほど盛り上がらないといけないと、こういうのっていいなぁって思いました。
田中
7年勤めて上がられましたが、その後にお店をオープンされるわけですか?
霜上氏
一応、修業後は熊本に帰ろうとは思っていたんですが、関西方面でも修業をやりたかったんです。しかし父が、僕が帰ったらお店を出す計画があったみたいで「そろそろ帰ってきたらどうか」と言ったんです。そういう父の言葉が後押しとなって自分の中でもいいタイミングかなって思って帰郷するようにしました。
田中
生まれ故郷に店をオープンされてどうでしたか?
霜上氏
店のオープンは1999年の12月です。
この場所は元々実家で、オープンに合わせて改装したんです。
オープン当初は僕とバイトの人が2人、製造は1人いたんですけど、すぐ辞めちゃって、大変な日がしばらく続きました。
当時は仕事が終わって次の日の仕込みをしないといけないし、人も不安定で入れ替わりが多くて、自分の中ではなんともないと思っていたんですけど、円形脱毛症になったり、気持ちとは裏腹に身体が反応していたんでしょうね。
オープンから2年くらいは大変な時期もありましたね。このままではお店は駄目になってしまうんじゃないかって思いました。東京から帰ってきて、こちらにも知り合いのお菓子屋さんもいないし、相談できる人もいなかったです。ただ、それからなんとか、頑張って3年目くらいから人も安定し、少しづつ気持ちにも余裕が出て来たんです。

文字

田中
お店にはコンテストのメダルや賞状などが多くありますが、コンテストに出られる訳は?
霜上氏
コンテストは自分を表現する場です。
その事でやる前とやった後では確実に自分が進化しているのが分かるんです。
いろんな競技があって、お店で作って会場に持ち込んで審査したり、実技はその場で機材などを持ち込んで作ったりとあります。

ジャパンケーキショーは日本最大級のコンテストで毎年10月にあるんです。
だいたい3日間で2万人くらい来場者があるんですが、僕が「成城アルプス」を上がる年に、オーナーの息子さん(現、成城アルプス社長)がフランスから帰国され、仕事は1年間しか一緒にやってないですけど、フランスでアメ細工のコンテストで賞を取っていて「すごいな〜」という話で、東京にいる間にアメ細工に興味をもって、熊本に帰ってからも独学でアメ細工をしていたんですが、それを発表する場もない。それじゃ東京のコンテストにどうにかしてもって行けないかなぁと思って、作品を入れるケースは50cmx50cmx1mで、重さだけでも15kgぐらいあるんですが、繊細で少しの振動でも壊れるんですね。

「絶対持っていくな」と言われていたんですが、精密機械を運ぶトラックがあって、それで運ぶ事になったんです。
前日、自分は先に東京に行って、当日ドキドキしながら待っていたんですけど、ものの見事に壊れていました。
粉々ですね。それで、持ち込みは不可能だと分かって、コンテストを諦めかけました。

しかし、当時うちのスタッフで結婚退社する女性がいて、僕が「最後、記念に何かやれよ」と言ったんです。
女性だけの実技のコンテストが東京であるんですが、それは予選からあるんで全国で10人しか残れないんです。
彼女は不安ながらも勢いで参加して、彼女がものの見事に予選を通って、全国から決勝に残った女性10名中、結果は2位だったんです。

それを見て、今度は僕がやる気になって、ルクサルドグランプレミオという実技の大会が毎年あるんですけど、作品を作って写真を撮り、配合も書いて送るんです。来た答えが予選通過しませんでした。とても悔しかったです。
「あ〜もうだめだ」って、でも、もう一度やりたいと思って、36歳の時に再度チャレンジしました。
すると今度は予選通過の通知が来たんです。
東京で一ヵ月後に決勝。
ケーキ2種類とアメ細工1種類を4時間で作るわけです。練習をするんですが、最初の通し練習で6時間以上かかりました。4時間ではとても無理だと思いました。
でも、練習を重ねるうちに人間というのはちゃんと出来るようになるんですね。やる度に時間が縮まって行くんです。
最終的に3時間45分くらいには終わるようになっていたんです。

それで、いよいよ決勝の日。勝手が違うのが一番ですが、機材も熊本から送ったので最小限だし、始まって一時間過ぎた頃には、すでに30分遅れているんです。
まずいな〜と思いながらも、それからは細かいアクシデントがありながらも作業は順調に運び無事終了しました。
それから、結果発表ですが、自分の中では3位ぐらいかなと思ってましたが、5位から順番に呼ばれ、3位違う、2位違う・・え〜優勝!!それが2007年第14回ルクサルドグランプレミオ大会でした。
感激でした。
田中
凄いですね。日本一ですね。
最近はコンテストには出されているんでしょうか?
霜上氏
2年に一回フランスで行われるクープ・ド・モンドというワールドカップがあるんですが、今年の3月に、その代表を選ぶ最終選考会に残ったんです。
アメ細工部門とチョコレート細工部門と氷細工部門の3部門をそれぞれ実技でやるんです。
それぞれの1位が今回、日本代表チームになる3名です。
1年間シュミレーションをして1年後、日の丸を付けてリョンで日本代表として戦うんです。

その最終選考会は、アメ細工部門とチョコレート細工部門が各12名、氷が6名決勝に残り、3部門で決勝に30名残ります。
僕はアメ細工部門に出て、この大会が凄くて7時間の競技です。

7時間も人間が集中できるかって話じゃないですか。時期が3月18日だったので、それまでにホワイトデーがありますよね。
書類が2月末締め切りで結果が来るのが3月5日なんです。
練習期間がなくて、その結果が来ないことには練習も出来ない、ホワイトデーも控えてる。 受かりたいけど、受かったらどうしよう・・そんな事を考えながら結果を待っていました。 結果、受かりまして、さてどうしようと・・。その時期、どこのお菓子屋さんもそうですけど、3月のお菓子屋さんは特に忙しいんです。 7時間の練習も夜9時から始めても朝4時に終わるんですね。それで、最初の通し練習をしたら9時間以上かかったんです。

作業手順を変えながら、いろいろどうしょうかなぁと悩みました。
その中でケーキも2台作らなければならないし、決勝の日はどんどん近づいていきました。
しかし、この時も、練習を重ねるたびに時間は縮じんでいきました。
そして、いよいよ当日になるんですが、歴代の代表選手が審査に当たるんです。
なんとも言えない張り詰めた緊張感の中、いよいよスタートしました。いざ始まると、あんなに長いと思った時間が、本当に一瞬でした。 10分前に終わったんです。
自分では時間内に終わり「ほっと」していたのですが、その時、誰かが言っていた言葉が頭をよぎりました。
時間ギリギリまでやんなくちゃいけない。 最後までファイターとしてやんなきゃいけない・・そんな言葉を思い出して、最後の一瞬まで作業したんです。

それから、「それじゃこれを審査会場まで運びます」とアナウンスされて、かなり離れた会場まで移動させないといけないんです。
高さが125cmあるんです。 当然一人では持てない。 過去にも会場まで移動する途中で壊れている人もいるんで、、一番緊張する場面です。 僕はスタッフを連れて来てなくて、審査員の中に知っている方がいらっしゃったんで、お願いして「え〜オレ」って言われたんですけど・・・・・。
それで、なんとか審査会場のテーブルまで無事運ぶことが出来たんです。 そこで、やっと脱力ですよ。

それで、「審査結果は明後日あります。当日、選手のみんなはフランス大使館まで来て下さい」と言われました。
当日はそこに行って最初は記念撮影をするんです。その後に審査発表があります。
一人づつ広間に呼ばれて、関係者、プレス関係がいる中を拍手を受けながら入って行くんです。
結果、僕は6位だったんですけど、自分の中ではまぁ良かったかなって、でも次は代表狙いたいなぁという気持ちになりました。
本当に良い経験をしたなぁとつくづく思いました。

終わった後にレセプションがあって、審査員の人たちと歓談して、一緒に戦った選手とかも話して、終わった後の雰囲気が好きで、みんな技術を公開する・・フリーなんですね。 これどうやんのとか、そういうのを見ると、いろんな技術などを公開することによって、自分の進化になると思うんです。
教えた以上、新しい事をまたやらないと、人間として技術者として、先に進めないと思うんです。
あえて公開することによって、自分もステップアップできると思うんです。

同じ志を持って、同じ日本代表を取りたいと思う人たちと戦えるというのはすごく気持ちいいですね。
「よくやるよね」って言われるんですけど、これは自分の生き様として、自分の歴史として、自分の一生の中に組み込まれるということは、なかなかない事だし、2007年の日本一になった時も考えようによっては、なかなかなれないなぁと思うし、たとえば70、80まで生きてきて何かで日本で一番になれた事があるかなって、到底簡単になれるもんじゃないと思うし、コンテストって人によって意味がないと言われる人もいますよ。 時間と金かけてね。でも、僕はやった人にしかわからない充実感があって、日々の仕事の中でそれを組み込んで、職人としての充実感や刺激を得たいと思うんです。


田中
いつ頃からコンテストに出されるようになったんでしょうか?
霜上氏
最初は22、3歳頃だったと思います。
その頃はマジパンで人形を作りデコレーションしての持込のコンテストに出していました。
それも当時、関西から来られた先輩のシェフが賞をいっぱい取られていて、その影響もあったと思いますね。
それからずっとコンテストに興味がありました。
田中
それでは、菓子職人にとって大切な事は。
霜上氏
自分が日々進化することです。そうすることによって、昨日よりも今日、今日より明日と、一日一日、少しでも自分を高めていくような努力をすればいいお菓子が出来ると思うし、それがお菓子作りだけじゃなく、当然、お客様への対応としても、同じことだと思います。今日、こんな接客をしたとか、こんな対応だったけど、こうすれば良かったとか思うのも進化だと思うんで、 いろんな部分で進化は必要だと思います。
僕はお菓子は物づくりと、とらえているんで、当然、視覚的部分というのは大事にしているんです。その中でいろんな造形物であったりとか。
美術品であったりとかいうのは、とても参考になりますね。その部分の感性を膨らますというのは、クリエイティブな仕事に携わっている以上すごく大事だと思います。
当然、見た目の部分で本質は味が一番なんですけど、やっぱり見た目でも美味しさって決まると思うんです。
細かいことを皆にも言うんですけどセロハンの巻き方でも、きちんと揃えて、並べたときの見た目ですね。それは大切な事だと思うんです。
田中
これから菓子職人になろうとしている人にアドバイスをお願いします。
霜上氏
出来そうで、出来ない位の目標を持ってほしいです。
極端に言うと一日単位とか、一週間単位で目標を持ってもらうと、意外と最終的に大きな夢を実現できるというか、いきなり俺は世界に出るという、突拍子もない事を言ってしまうと、立ち消えしちゃうんで、本当に細かいことでいいと思うんですよ。
今日15分掛かった計量を明日は14分でやろうとか、日々の小さな目標を立てて欲しい。どんな才能がある人ない人でも、一日は同じ時間しか与えられていないのでその瞬間を大事にして欲しいと思います。その辺の時間の使い方で同じスタートラインに立てたとしても、そんな小さな目標ひとつで、一年後にはそれぞれ差が出ると思うんです。
どんな人にも時間は平等に与えられているんで、いろんな事を積極的にやって頂きたいですね。
田中
本日はありがとうございました。
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