田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃、熱中した事はありますか?
小田氏
1968年2月24日福岡の宗像出身です。
本は良く読みましたね。
今もそうですけど、負けず嫌いだったので、喧嘩ばっかりしていた記憶があります。
中学、高校はバレーボールをやっていました。
特に中学時代では鍛えに鍛え抜かれて、、ただ耐える力はついたかなと。勝てないけど鍛え続けて、へとへとになって、だから高校ではバレーはしないと考えていたんです。
シェフ
でも、友達とバレー部を見に行ったら、各中学校の以外に良いメンバーが集まっていたんですよ。
また、監督から「お前アタッカーできるんじゃないか」とも言われて、これは世界が変わるかもしれないと思って入部しました。
すると、今度は中学とは全然違って勝ちまくるんですよ。
それからは、勝つ楽しさを知って、自由にやらせてもらっていたので高校生活は充実していましたね。
田中
では高校を卒業されてからは?全然、お菓子の業界には興味なかったんですか?
小田氏
高校2年生の頃ですかね。先生が「大学行くだろう?推薦くらいはできるぞ」と言ってくれていたんですが、僕はその頃から、
大学に行って社会人になってそれでどうするんだろう?と、ちょっと疑問を持ち始めて。
親父がサラリーマンで、その姿を見てたので、俺はサラリーマンはしたくないと、自分で自分の給料を決められるのがいいと
思っていました。
そうすると何だろうと考えて「プロ」だと、何かのプロになりたいと、自分のやりたい事を仕事にするのが性に合っているんじゃないかと思っていたら、友達が「今度、大阪に出来た調理師学校に体験入学に行くんだけど、遊びがてら大阪行かないか」と言われて、
料理もいいなぁ・・と。
それで大阪の辻調理師専門学校に行く事になったんです。
本当にいいかげんな決め方なんですけど、親父には一応啖呵切って「俺はプロになる」と、
「自分のやりたい事で食べていきたいんだ!
だから行かせてくれ」と言ったのを覚えてますね。
田中
辻調理師専門学校を卒業されてからは?
小田氏
今はなくなったんですが、福岡のA&TフーズというJIGER BARやスパゲティ屋、イタリア料理とかやっている会社に入ったんです。 最初にJIGGER BARに配属されまして、ただバーなのでほとんど料理も出ず、何やってんだろうって、正直、その頃は何となく遊んでました。 そして次にスパゲティ屋に配属されたんです。
「イタリーボン」という昭和通りのお店で、1年位いて、そこでちょっと目覚めたというか少し真面目にやり出しました。
それまではJIGGER BARの頃とかはバンドもやっていて自分では「俺バンドで食べて行くかもしれない」と思っていて、
ある時、自分たちのアニキ的バンドがデビューして2曲くらい曲を出したんです。 自分たちよりすごいレベルも高かったんですけど、全然売れなかったんです。 それを見て、あぁ俺無理だと。
この人たちで売れないんなら俺たちじゃ絶対無理だと、自分ですら夜、仕事して昼にバンドの練習をして、限界でやっていましたから、そして他のメンバーも「大学卒業したら就職するよ」と、とても現実的になってきて、みんな大人だなぁと思って、じゃあ俺には何があると考えてコックをしっかりやろうと思ったのが、「イタリーボン」のスパゲティ屋の時です。

それからは、店に朝早く行って皆が来る前にランチスープの仕込みをしたりしてました。
それを毎朝続けるようになって、そうしたら、チーフが「何か最近真面目にやっているな」といろいろ教えてくれるようになったんです。 その時に「真面目にしっかり勉強するなら、ホテルに行ったほうが良い」と言ってくれて、僕はまったくホテルを知らないし、興味がなかったので 「いや俺はスパゲティ屋のチーフになるんだ」とか思っていたんですが、紹介してもらって仕方なく「ホテル日航福岡」の面接を受けました。
でも、「お菓子の部門しか空いていない」と言われたんです。 「料理はちょっといっぱいだから、とりあえずお菓子なら空いてるよ」と、「お菓子は止めとこう」と最初は思っていたんです。 でも、僕は洋食だったのでいずれ洋食屋をするならデザートを勉強しないといけない、しかも「ホテルの中に入ってしまえば、後々移動は出来るからと思い、また、「そうそうホテルなんて入れないんだぞ」とも言われていて、自分なりに考えた末、お世話になる事に決めました。
田中
ホテル日航福岡ではどうでした?
小田氏
それからお菓子をやり始めて、そこで師匠との出会いがありまして、凄い方がいたんです。
何を見ても、もちろんお菓子を作るという事に関してとても深くて、2、3年で移動しようと思っていたのに
「これは2、3年では覚えきれないな」と、ある日、師匠が飴細工をしている所を見て本当に「すげぇ〜」と思いました。

これがきっとパティシエで生きていこうと思ったきっかけだと思います。
「こんな凄いものが作れるようになりたい」「砂糖が何でこんな風になるんだ?」とすごい感動しました。
でも基本から積み上げていかないといけないと言われ、分からない所からのスタートで、独学でやって、気が付いたら師匠も辞めちゃってるし先輩もみんないなくなっちゃって、それで結局、スーシェフまでやらせてもらったんです。

でもそうなると普段の仕事に忙殺されてしまって、まぁ、フランス人・イタリア人・ドイツ人とかのフェアもあり、そういう人たちと仕事が出来る環境はホテルにはあったので、非常に影響は受ける事が出来たんですが、最終的には自分でやるしかない状況で誰にもあまり教わる機会がなかったんですよ。
師匠には、お菓子屋としての生き様というか、そういう人間としてのスタンスが非常にすばらしいと思い、
こういう菓子職人になりたい。
それで勝手に師匠にさせて頂いて、技術は本当に独学でした。
でも苦労したという気はなくて、何かキツかったことは?と聞かれても、あったんでしょうが、
辞めようと思った事は正直ないんですね。
田中
ホテル日航福岡にはどれ位いたんですか?
小田氏
10年ですね。
師匠が辞めたあとに、自分もすぐに辞めようと思ったんですけど、まだまだ僕自身が一人前と言うか一通りやっていないなと思っていたので、やっぱり生物、焼き物、アイスクリームもあったので、一通りやれるようになりたいと思いやっていたんです。
ちょうど5年位で一通りしましたね。その時に先輩が辞めてしまったんです。
それで、立場上辞めにくくなって。
6年目くらいの時に「辞めたい」と総料理長にも言ったんですけど、「ダメだ、お前はもっとうちでしろよ」と言われて、じゃあどうしたら良いんだろうと考えた時に「後輩を育てればいいんだよ」と言われて、自分の代わりになる人間を育てればいいんだなと思い、育てながら自分も何もやらない訳にはいかないので、その頃から「飴細工」や「チョコレート」をこれも独学なんですが勉強しました。

だから本を見ながら自分で勝手にやって来たような気がします。
でも本通りにはいかないですね。
誰かが教えてくれたら早いのにと思っても、海外の本しかなくて、当時は失敗ばかりして体で覚えていたんですが、
東京の稲村さんという方が本を出していて、これがバイブルになりました。
とても分かりやすくて、今までの疑問が全て解決しました。
普通よりも何倍も作業を繰り返しやってきている分、本に書いてある理論がすぐ頭に入ってきましたね。
田中
本当に体でしっかり覚えてこられたと言う事ですよね。また、その頃は後輩の指導とかされていたんですか?
小田氏
ここに残った以上は成長できる事を考えようと思って、人の育成だとか人の頭に立つ訓練だとか。
それに飴やチョコはもう菓子屋の技術だと思ったんです。
飴細工、チョコは、料理人はやらないと思ったので、それが俺は菓子屋だからという証明になると思い、
やりだしていたらスーシェフに立っていたという事です。
いろいろレシピ書かせて頂いたり、割り振り決めたり、実戦部隊の頭みたいな。
ただ、もう自分でも「ぬるま湯」じゃないですけど、やっぱり10年もいたので慣れちゃっている部分、歳も30歳だし、
横着になってきているなと思っていたんです。

20代はずっと修業だと思っていたんです。けれど、それを今度は自分らしく形にしていかないといけない歳になってきているから、
でも、お店をやりたいとかは思っていないんですよ。
だから俺は早く次ぎに行って自分を高めないとというだけで、とにかく出れば高まるだろうと思って出たんですね。

それで最初に学校の講師をやらないかというお話しがあって、その頃、お菓子の専門学校も少なかったですし、専門学校の先生なんて言うと
「終わっちゃう」と言われていたんです。現場と違うから、あれだけ現場でバリバリしていたのにもったいない、とか皆んなに言われましてね。
だけど師匠だけが、「おまえは学校に行っても大丈夫だ」と言ってくれて。
その辺も僕は「あまのじゃく」で、みんながダメだと言われると絶対やってやると思って、学校に行っても現場の人間に負けないレベルを保てればいいんだろうと思って行く決心をしました。
田中
どこの学校に行かれたんですか?
小田氏
中村調理製菓専門学校です。
ちょうどこれもまた良い時期で、立ち上げて2、3年だったんです。
カリキュラムから携わらせてもらって、今はクラスも増えて大きな科になったんですが、当時は1学年1クラスとかで、
2学年しかなくて、どの生徒の事も分かるみたいな非常にファミリー的なクラスでした。
また、校長の理念・考え方が「お菓子を通じてちゃんとした人間を育てるのが目的だ」とハッキリ言われていたので、
あぁここは教育に関して真面目にやっているんだなと感じました。

僕はそんな真面目な人間じゃなかったんですが、少しは真面目な人間に近づくんじゃないかと思って入ってみたんです。
そうすると理論が必要な気がしました。
最初、半年間は授業をしなくてよかったんですけど、その間にいろんな本を読んだり、人の授業を見たりしながら自分のやってきた10年間をもう一度洗い直す事が出来まして。

そうすると、あの出来事はあれで良かったんだな、とか、あれは違っていた、とか、そんな事を半年間で洗い直して実際授業をやりだすと、人に教えると言うのは本当に自分が分かってないとできないと思いました。
ホテルでやっていた仕事って浅く広くなんです。
いろんな事をさせてもらえるんですけど深くないのでつっこまれたら答えられない事がたくさんあったと思います。

だけど学校、学生は遠慮なしにつっこんで来るんで、全部答えないといけない。
だから、考えて洗い直していたのが非常に良かったですね。
それで自分は基本は出来ていると感じれるようになりました。
学生にも「基本ばっかりやれ」と言っているんですが、そろそろ「自分らしさ」というものを考えだして、コンテストを始めたのがその頃なんです。
でもお菓子の現場にいないんで今度は焦るばかりで、学校でこんなにやっているけど現場はもっとバリバリ先を行っているんだなぁと感じて。だけど、圧倒的に良いものを作れば、現場の人にも負けないと思ってやり出したんです。
学校でそういう事やるには理由付けがいるので、「学生の教育の為に!」とか言って、まずは僕がやって結果を出せたら学生を指導する権利がもらえるんじゃないかなと、それで学生にも指導するんですけど思ったよりみんな素直で、僕の学生の頃のイメージと全然違うんです。

みんな本当に真面目で、あぁ今の子はこんなに素直なんだなって感じました。
それから少し物事を真面目に考えるようになって、またそれを出すのがカッコ悪いと思っていたんですね。
だからホテルの時もアロハシャツに雪駄を履いて行ってたりして上司に呼び出されてたりしたんですよ「お前、後輩も見てるんだからスーツくらい着てこいよ」と、でも「いや俺は仕事が出来れば技術があればいいんでしょ」とか、つっぱてたし、だけどそうじゃないなぁと学生に教わりましたね。
それでもうちょっとちゃんとしようと、但し個性も大事だなと感じたんです。

正直、みんな今の子供たちは「これをやれ」と言えばちゃんとやるんですけど、 「自由にやれ」と言われたら何にも出来ないんですよ。それが非常に気になって「やりたくて入った道なら自分を表現しないとおかしいだろう」と、「何でお前たち自分を表現しないんだ」と、それを楽しめないのはおかしくないかと話し合って、そうすると言っている自分が一番個性的でないといけないなと考えて、だから作っているお菓子とかもその影響ですかね。

人と違う事をやろうとか、誰が見ても俺が作ったと分かるような物を作らなければ、学生は認めてくれない、最高のお客さんです。
新しいお菓子作ったりした時も試食してもらったりして、食べてみろって渡したら「えー!なんこれー!」って、あいつらハッキリ言いますから、そしたら俺も「バカかおまえらにはわかんねぇんだよ!」とか言いながらも、ああこれはダメだったかみたいな。
そしてまたどんなのが喜ぶかなって考えて「これはどうだ!」って、それがハートの形のマカロンだったんです。

文字

田中
ハートの形のマカロンは学校で考えたんですか。
小田氏
ええ。
丁度2月の頃でバレンタインの時期だったので、「ハートの形でラブラブマカロンで可愛いだろ」って言ったら「先生、これ良いよ」って言ってくれて、おぁ、受けたなぁというのが残っていて、だけど授業も基本はしっかりやって、所々に自分の色と言いますか「楽しんでる」というのを学生に教えたかったんです。

お菓子は楽しいんだと、楽しい自由ってのが一番キツイんだと、その代わり、意地張って一人苦労する事もあるけれど、
そういうのを目指して欲しいと。
形はいろいろあるだろうけど、女の子は結婚したら家庭に入るでしょうけど、家庭でも手作りで子供に食べさせてあげれるじゃないかと、それはそれで意義のある事だと思ったので、そういう事の一端をになえればと一生懸命させて頂いて、
本当は3年で辞める予定だったんですが‥‥‥6年いちゃったんですね。
田中
学校を辞められたきっかけは、また、その後は。
小田氏
5年目の時で「もうそろそろ潮時だな」と感じている時でした。
だけど僕の上の先生が先に辞めちゃってまたクラスも増える時期で、2年コースを持っていたので、1年生が2年にあがる時に僕だけ辞めるのが嫌で、一緒に卒業したい気持ちがあったので辞めるチャンスは2年に1回だったんです。
コンテストもある程度、結果が出て、「クープ・ド・モンド」って言う世界大会があるんですが、あれで決勝大会まで行けて、寺井さんとかと一緒の土俵でやらせてもらって非常に勉強にもなりましたね。

それで「俺はやっぱり現場だ」と、そんなちょっと腐りかけている時に、パリでお菓子屋をしている方で青木さんと一緒に仕事させてもらって、すごいシェフだなと感じました。そこから気持ちも前向きになって個性化に加速がついたというか、もっと俺らしいものを探そうと思って変なお菓子ばっかり作ってました。

当然、学生からも「先生変ってる」って言われたけど、「でもそんな先生が作るお菓子売ってないよね〜」とか言って、とりあえずいろいろやってたんです。
それで、とうとう学校を辞めるタイミングが来まして、次の年の事もあるから半年前くらいに校長に言わなきゃと思って夏頃に、言ったんですが、その後の事は何も考えてなくて、腹が決まれば縁は向こうから来るんじゃないかと思っていたので、36歳の頃かな、8月に辞めると言って、いろいろ仕事のお話は頂いてはいたんですが結局次の年の2月まで何も決まらなくて、そこで何が面白いかなぁと考えた時に出てきたのが「店」をやる事だったんです。

それが一番面白いんじゃないかなと。
今までやってきた自分の経験をお客様が評価してくれて、それで店の将来も左右される。怖いけど一番真剣勝負じゃないかなと思ったのが2月です。そして、4月からお店の構想を考えました。

でも知識も考えも何もなくて一番、今必要な事は何かなと考えて「僕の事をよく知っている人達」だなと。
分からない事は教えてもらえば良いし、場所は今までの経験からあまり関係ないし、後は資金がなんとかなればお店は出せるなと。でも結構いいかげんに決めた部分もありました。
夏にオープンしたいと思っていたのであまり時間もありませんでした。
田中
それでお店を出されるわけですが、何年の何月にオープンされたんですか?
小田氏
2005年の3月に学校を辞めて、4、5、6で準備して7月7日にオープンしたんです。
店舗も完成して、あとは俺がやるだけだと、ブランドになるくらいの気持ちでやりたいと。
まぁ勝手な妄想ですよ。でもそこからスタートしました。
だからイキナリ老舗の風格で行こうと、ロゴもお店もカチッとバッチリ決めて、老舗だと思ってもらえるようなお菓子作りを目指して、今ここまで来たって感じです。
俺はお菓子の事しか分からなかったですけど、デザイナーや建築家が本当に心を砕いてくれて、ショーケースも僕はすっきりした物が良かったので、8尺と長くはなりましたが1本だけの特注で作ってもらって。
田中
場所をここに決めたのは何か理由があったんですか?
小田氏
ひとつの理由としては、僕は学校にいたのでお菓子屋さんがほとんど知り合いなんですよ。
だから、変な場所に出せないと言いますか、競合になりたくないと言うか、別に嫌われたくないわけではなくて、分かっているのに変な事をしたくなくて。
その次に今のこういう店がやりたかったので博多でならやれるかなと思って、博多近辺で探したんです。
でも「16区」さんとか「チョコレートショップ」さんとかあるし、どうしようと思って探していたら自宅辺りはお菓子屋ないなと、そして探し始めたら、たまたまここが空いていて、一緒に探してくれた後輩も「ここいいですねぇ!」って賛同してくれて、本当にいいかげんで単純な決め方だったんですがここに決まりました。
田中
どうでした、オープンして。
小田氏
もうバタバタでした。
お風呂に入るのがやっとでお店で少し仮眠とるくらいで、ものすごく気合入ってたんですね。
人と違う事をやるんだーって。
ちょっとでも間違ってたらダメだと、その時居た2人にはものすごく厳しかったですし、僕自身もすごいプレッシャーを感じていたので
絶対妥協できないと。

みんな良い子なのでハイハイとやってくれていたんですが、どうしても中が思うように上手くいかなくて、人もすぐ辞めちゃうし、嫁さんもこういう経験がまったく始めてで、嫁さんも1回出ていっちゃて。
でも俺は絶対ここから逃げない、逃げられない、だから人が辞めても嫁さんいなくなっても俺ひとりでもやるって言って、昼は販売にも出て、夜は販売の子も手伝ってくれて仕込みをして、そんな時期も少し最初の頃はありました。

だけど、何だろう、それでもいいと思っていたんですね。
人の評価得るには、妥協してても意味がない!って思っていたから、それでもいいと思っていたんですけど、そうしたら嫁さんが手伝ってくれて経理とスタッフの昼御飯を作ってくれるようになって、裏方に徹してくれて、そういった協力のお陰で今があるんです。
田中
その後は順調に?
小田氏
いやいや、本当にそんな事ないですよ。
まず、思っていたよりもお客様の層が違っていました。
女性が多いだろうと思っていたら、しっかり男性半分だったんです。
オフィス街も近いですし、可愛いというよりはカッコいい店風にしたので、中学、高校生は入ってこないで男性の方が一人でもスッと入って来られるんです。

後はやっぱりどこも一緒だと思いますが人も苦労します。人が続かない、商品が思った物が売れない。
マカロンなんて最初まったく売れなかったですから、ある意味趣味だなと思ってました。
でも、やり続ける事に意味があるんだと思っていましたね。

たまに無料で配っていたので、その為に作っていたようなものです。
エクレアも最初は売れなかったです。「シュークリームないの?」って言う声のほうが多くて、やっぱり思うようには伸びなかったですね。ただ、ひとつはマスコミとかにも今までの既存のお店に飽きている人たちがいて、多分そういう人たちが面白がって取り上げてくれたんですね。

デパートもそうです。オープンした時から声を掛けてくれて、2、3ヶ月に1回くらいで出ていたんです。
「売れないのに何で声かけられるのかな?」と思って、たぶんそれが個性だと・・「九州ウォーカー」でも10店舗出てたら、1店舗うちみたいなのがあったらバランスがとれる気がして、あぁうちのポジションはここでいいんじゃないかなと思いました。
それで出店してからですね、知名度だけで言えばバーッと広がって、それで少しずつ軌道に乗ると言うか、ある程度計算が立つくらいの売り上げになってきたと言う気がします。

田中
菓子職人にとって大切な事は?
小田氏
一番大切なのは、「誰かの為に作っている」というのがあって、
もちろん自分自身の為になるんですけど、このケーキを買う人が誰かに贈って、貰った人が、どうかが僕の結果だといつも思うんですよ。
若い子にもよく言うんですけど、俺等プロだから、体調悪かろうが、ケガしてようが、結果を出さなきゃならない。
その結果はなんなのか。「売れた」じゃないと思うんです。
そのケーキの先にある気持ちが結果だと思うので「ウワァー!」と言ったら勝ちだと、「美味しい!」でもいいし、とくに僕は見た目にもこだわりますので、見た瞬間に笑顔が出たら俺の勝ちじゃないかなと思うし、僕等は裏方だと思うのでそういうのを裏から支える人間だから、表に出ても意識さえ失わなければ大丈夫かなと、出てもいいけど基本は気持ちは裏方で、「誰かの為に」を大事にしています。
だから今の子が続かないとしたら理由はそれです。

自分の為にやろうという子は多いんです。でも誰かの為にやれていたら、分かると思うんです。
「時間じゃない」「お金じゃない」それが全部自分に返ってくるから僕も非常に良い仕事だと思って誇りとプライドをもってやっているんですけどね。
田中
これから菓子職人になろうとしている人にアドバイスを。
小田氏
そうですね。まぁ良い意味でバカになれる人間が残るような気がするんです。
僕もだいたい根がバカですから、若い頃は「寝ない自分」が好きで仕事で寝ないだけじゃなくて、遊びや、飲みでも寝ないで全力でやっていたので、誘いもまず断らなかったですし、それが今、人間関係を築いているというか。
今だけを見ないで、今だけを考えると小さくまとまっちゃうと言うか、本当に計算と打算でしか生きて行けなくなるかもしれないけど、
ちょっとバカだったら、毎日、自分の血となり肉となりで色々な経験をした方が、あとで感謝出来るようになると思います。

今の子はみんな頭が良いと思うんですね。
見ていたら、一瞬でこれから1週間はこうなる、1ヶ月はこうなるって出ているような気がするんです。
でも学校でもそうでしたけど、頭の良い子ほど続かないんです。

だから少しだけバカで、だけどぶれない自分を作る。
ひとつだけ芯を作って数年先を見るようなスタンスで行って欲しいなと、これはどんな業界でも一緒ですよね。
自分のやりたい事を決めたなら簡単に諦めないで欲しいです。

そうすると30歳くらいで大人になってきたなぁと、成人式も30歳でいいんじゃないかと思います。
自分も20代はガキでしたから。
今、日本もぐちゃぐちゃなので、もう一度、若い人たちが意義のある人生を送ってほしいと、そう言う意味ではあんまり目先の事ばかり考えていたら真っ暗ですし、そんな事を考えるようになりました。
年くったんでしょうね。
田中
本日はありがとうございました。
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