吉野
生年月日とご出身地を教えてください。
藤田氏
1966年11月25日に京都で生まれました。
吉野
小学校の頃の藤田オーナーはどういうお子さんでしたか?
藤田氏
悪い意味ではないのですが・・・落ち着きのない子供でしたね。面白い事が好きで、常に何かに首を突っ込んでいるような子でした。友達が集まって話をしていると今までやっていたことをほっぽり出して、その話の中に入って行くという感じでしたね。
吉野
京都というよりも関西人っていう印象ですね。
藤田氏
そうですね。人と話すのが好きでしたね。人との関わりが好きっていう意味では関西人でしょうね。
吉野
小さい頃とか料理とかお菓子作りをされていたんですか?
藤田氏
まったくしてませんでした。粘土細工や木などを使って遊ぶ道具を作るのが好きでした。
吉野
菓子職人になったキッカケっていうのはあるんですか?
藤田氏
実は、母が私が幼い頃に亡くなり、父も中学2年の頃に亡くなってしまったんで、普通の家庭的な生活という経験がなかったんです。小遣いをもらった記憶もないからお菓子を買って食べるという事もなかったし、ましてや誕生日にデコレーションケーキなんて買ってもらった事もなかったんで、パン屋かケーキ屋になったら食べられるっじゃないかと思っていましたんで、結局ケーキ屋に就職したのが始まりでした。
吉野
そうだったんですか。お父様が亡くなってからはどういう生活だったんですか?
藤田氏
大阪で商売していいる父方の叔父に、商店で使っていない部屋を貸してもらって、そこに置いてもらいました。叔父と言えども人の世話になるのが嫌でアルバイトしながら食べていました。中学を卒業して、早く独立したいと常に思っていましたね。
吉野
ご苦労されたんですね。
藤田氏
父が死んだショックで気持ち的に突っ張っていたし、思春期の真っ只中だったんで、親戚とか、うっとうしいとしか思えなかったんです。
吉野
中学を卒業されてから、どこに就職されたんですか?
藤田氏
ケーキを作る工場に就職しました。
吉野
そこに何年間おられたんですか?
藤田氏
2年間です。それから洋菓子職人になりたくて本格的な洋菓子店に行きました。
吉野
何と言うお店ですか?
藤田氏
「アルチザン」という大阪の豊中市にある洋菓子専門店でした。大阪でもフランス菓子では有名な老舗の洋菓子店だったんです。
中学を卒業して二年間は大手の菓子工場で働いただけだったんですが一生懸命やれば何とかなるんじゃないかという変な自信みたいなものはありました。
吉野
有名店によく採用されましたね。
藤田氏
お店も募集をしていましたし、「給料はいりませんから、入れてくださいって」鍋島オーナーに言ったもんですから、その熱意が買われたんだと思いますね。
吉野
どうでした本格的な洋菓子職人の世界は?
藤田氏
厳しかったですね。それはもう厳しかったの一言ですね。
怒鳴られるわ・・・物は飛んでくるわ・・・今まで経験した事がない世界でした。
吉野
今では考えれないですね。仕事時間はどうでした?
藤田氏
朝早くから夜遅くまで働いていました。朝6時から夜中の1時2時までは当たり前でした。当時寮に住んでいたんですが、寝に帰るというよりも少し休むという感覚でしたね。ただね、オーナーがそうしてくれって言ってたんじゃなくて私自身がそうしていたんです。
吉野
藤田さんが自分でそうしていたんですか?
藤田氏
「アルチザン」に入った当初は、5人だったんでとにかく毎日忙しい日々でした。1年半の間は1日も休めなかったからですね。ただね、何年かたって後輩が入ってくるようになると仕事を残して帰りたくないわけですよ。中途半端で帰る自分が許せないんです。後輩を先に帰してでも仕事を終えるまで帰りませんでした。
吉野
責任感が半端ではないですね。
藤田氏
まあ、鍋島オーナーから拾ってもらったという気持がありましたし、性格的にきちっと最後までやりたいという気持が強かったからですね。
吉野
お店の規模は大きくなってきたのですか?
藤田氏
支店ができて菓子職人も20人近くになりました。そうなると私自身も責任が重くなるような部署の仕事をするようになりました。
20歳で店長となりひとつの店を任せられるようになりました。
吉野
20歳っていうのは若いですね。
藤田氏
今から考えると相当若いと思うんですが、お菓子って嗜好品ですから、年取った職人が作るよりも若い職人が、時代の空気を感じながら作ったほうが感覚的に良い場合もあります。ですから若くして店を任されてお菓子作りができたことは、今の店づくりにも役に立っています。
自分が洋菓子店を経営している今から思えばありがたい事だと思っています。
経営者が年を取ると店も年を取るんですが、それはある意味しょうがない事なんですが、常に若い人の感覚を持ちながらお菓子や店つくりを考えないといけないという事は常に頭の中にありますね。
吉野
常に若い感性でお菓子を作らないといけないという事ですか?
藤田氏
そうです。これだけ洋菓子が溢れている時代ですから、常に若い感性でお菓子を作っていかないといけないと思いますし、お客様にしても若いパティシエが作るほうが素敵に思えていただけるんではないかと思っています。
店でもできる限り若い人に任せるようにしています。
吉野
「アルチザン」には何年勤められたんですか?
藤田氏
8年間です。お菓子作りということに加えて店の運営や人の管理までするようになりましたんで、あれよあれよという間に8年が経ってしまいました。
吉野
お菓子作りの全ての事を学ばれたんですか?
藤田氏
そうですね。「アルチザン」ではプチガトーや焼き菓子を始め、チョコレートやパイなども作っていましたので、全ての覚えるのは大変でしたが、自分が担当していない仕事まで覚えましたね。皆が帰った後に試作してました。17歳から25歳まで8年間はお菓子作りの日々でしたね。
お菓子一色でした。店の経営や運営なども学ぶ事もできたので、今考えると忙しい毎日でしたけど、本当にありがたかったですね。
吉野
それから、どうされたんですか?
藤田氏
九州の福岡に行きました。
吉野
どういう動機で九州に来られたんですか?
藤田氏
妻もパティシエールとして「アルチザン」に勤めていたんですが、その時に知り合って付き合うようになったんです。
実は妻が九州の福岡の出身だったんで、結婚を機に一度は福岡にでも行ってみようかなと・・・。
いづれは大阪に帰るつもりだったんですよ、まあ、軽い気持でした。
吉野
でも、長くなりましたね。しかもお店まで持つようになったんですね。
藤田氏
そうですね。流れというか・・・そんな感じですね。
吉野
九州に来てからはどこかにお勤めになったんですか?
藤田氏
はい、クイーンアリス、シモン、メゾンという3店舗に勤めました。
吉野
九州の洋菓子と関西の洋菓子は違いますか?
藤田氏
違いますね。「アルチザン」にいる時は、神戸のハイジやアンテノールなどに研修に行く機会があって神戸などの洗練されたお菓子に触れる機会が多かったんで「九州ってお菓子が単調だなぁ」と思ったことはありましたね。
吉野
やはり土地柄ですかねぇ。
藤田氏
全てではないと思うのですが、九州は、分かりやすいお菓子が多いのかなと思いました。
それは基本に忠実ということでしょうが・・・・少し残念な気持にもなりましたね。
でも、これが自分の店を開店したときに苦労する部分になったんです。
吉野
苦労というのはどういう事ですか?
藤田氏
福岡に来て3年経ち、28歳で自分の店を小郡にオープンさせたんです。でも、自分が作るお菓子が受け入れられない訳ですよ。
つまり、売れないんです。
吉野
九州に来られて3年間地元の洋菓子店で働いて、こちらお客様のお菓子の好みは理解されたんでしょう?
藤田氏
分かっていたつもりだったんですが、まだ自分が培ったお菓子作りへのこだわりがあったんです。やはり関西風のお菓子を作ってしまうんです。関西風というか神戸風の小さな洒落た・・・値段の高いお菓子ですね。
吉野
それでどうされたんですか?
藤田氏
悩みましたよ。半年間は、厳しかったですね・・・・。
妻も菓子職人でしたんで二人して色々話し合った結果、「ケーキは大きくして値段は安く、そして分かりやすい」をモットーにお菓子を変えていったんです。
吉野
それで、どうでした?
藤田氏
正解でした。少しづつ売れるようになりました。
吉野
神戸の洋菓子というと、どうしても洗練されたお洒落なスイーツという印象ですよね。
やはり、洋菓子ってイメージが先行しますよね。
小郡という土地柄は、どうしてもお子様からご年配の方々まで安心して食べれるケーキっていう印象ですからね。
藤田氏
そうなんですよ。それが本当に分かりました。でも、菓子職人としてどうしてもひとつこだわりたい部分もあるんです。
吉野
こだわりたい部分というのは、何ですか?
藤田氏
その土地、その地域に合せた分かりやすいお菓子ももちろん必要だと思います。
でも、それだけじゃ、菓子職人としてのプライドが許さないんですよ。関西の頃の先輩に、わたしが職人として駆け出しの頃に教えてもらった事があるんです。
「お菓子作りに基本は大切だけど、その基本を少しづつ変えていく事も大事な要素なんだ」ということなんです。
基本だけでお菓子作りをやっていたら時代の嗜好に置いていかれると思うんですよ。だから、分かりやすいお菓子も少しづつ変えていったり、今までにないお菓子もお出ししていったりという部分も大事なんだと思うんです。
保守的になって止まってしまったらアカンと思うんですよ。基本も進化させるという発想が大事なんです。
吉野
お菓子作りの基本も進化させるというのはどういう事ですか?
藤田氏
今は、多くの洋菓子が溢れている時代です。お菓子は、もう出尽くしていると思うんです。ですから、基本に忠実なお菓子だけでは今のお客様に飽きられるという事もありえますよね。
シュークリーム、ロールケーキ、苺ショート、プリンというのはケーキ屋さんにとっては定番の商品ですから、ある意味なくてはならない人気の商品ですよね。その他にもチーズ系のケーキやモンブランなどの分かりやすいお菓子も必要になってくるんです。これを作るにはお菓子作りの基本というのもあるんですが、材料や設備の関係で変わってくる場合もありますし、変えた方が作業の効率がいい場合もあるんです。
また、面白い材料や原料を積極的に見つけてきて定番商品でさえも、新たに試作していく柔軟性は必要だと思うんですよ。定番商品は売れるから、もうそれで何年もそのまんまという保守的な考え方ではだめだっていうことですよ。
若い連中にも今のお菓子が、これから何年も何十年も売れ続けるということは絶対ないから、常に新しい発想をしないといけないぞと言っています。
吉野
先ほどの若い感性という事ですか?
藤田氏
そうですね。洋菓子というイメージを考えると、基本をきっちり身に付ければ若いパティシエやパティシエ−ルがスイーツを作るほうがお客様の印象は良くなると思うんです。また若い人なりのお菓子の発想も取り入れて行った方が面白いと思うんです。
ただ、新しい素材や原料の組み合わせに関しては、職人としての経験が必要な場合もありますので、その基本は絶対に必要になってきます。
ですから、経験ある菓子職人と若いパティシエとの共同作業というのが、これからの洋菓子店には必要になってくると思いますね。
吉野
最初の店はいつごろオープンされたんですか?
藤田氏
1994年ですね。小郡で15年間営業しました。
吉野
店名の「アドレ」ってどういう経緯で付けられたんですか?
藤田氏
「アドレ」っていうのは「大切な」とか「想い」、「大事な気持」という意味があるんです。妻と二人でああでもないこうでもないと考えました。
それに「ア」で始まる店名にしたかったんです。私の出身の店が「アルチザン」で「ア」ですし、尊敬する先輩の店が「アンジェリーナ」で、やはり「ア」でしたから・・・「アドレ」でいいかなって・・・・それで、店名にしました。
吉野
藤田オーナーは菓子職人にとって大切な事とは何だとお考えですか?
藤田氏
その人の人間性。その人の気持ちが大切ですね。真面目な気持でお菓子を作るいう気持ですね。
真剣にお菓子と向き合う事が必要だと思います。お菓子作りっていうのは手間隙かけて何ぼの世界です。面倒くさい事をコツコツやっていかないといけない仕事なんですよ。それを自分の全ての時間をかけてやれるかどうかなんですよ。
今の若い人ってすぐに結果を求めたがる傾向があると思うんですが、結果ってすぐにはでません。何年もの地道な努力の中でしか結果は生まれません。長い時間かけてお菓子を作る技術を習得し、それを仕事として毎日やっていくという事は実は大変な事なんですよ。
菓子職人になるには近道なんかあるわけがありません。菓子職人としての結果が得たければ長い年月をかけて地道にやっていかないといけないと思うんですよ。
吉野
今日は、貴重なお話を本当にありがとうございました。