アントルメ菓樹



田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃はどんな事に熱中していましたか?
柴田氏
昭和31年10月27日生まれ。出身は熊本市です。
小学校の頃は体育が好きでした。
中学校から高校まではクラブでバレーボールをして、大学では少林寺拳法をしました。
大学も熊本で、中学校の頃までは家業を継ごうと思ったんですが、高校、大学になるにつれて早く家を出たくて家業を継ごうとは思わなかったんです。
田中
先代の頃の屋号は松月堂さんですね。
和菓子をされていたんでしょうか?
シェフ
柴田氏
元々創業の頃、松月堂は駄菓子屋なんですよ。私も子供の頃からたばこを売っていました。だから駄菓子屋と煙草屋ですね。
駄菓子は5円とか10円のキャラメルとかガムとかお店で売っていました。そういう時代に煙草は40円、50円ですから。
自分でも覚えています。ネクタイしている人は70円のハイライトを買うんですね。

それで、私が10歳の頃に親父がカステラを作る勉強に行きまして、家の二階にオーブンを置いたんです。そこでカステラを焼き始めました。
私たちは住む所がなくなった訳です。居住空間は寝る所と台所だけであとは作業場でした。
最初はカステラを作りその後、まんじゅう、最中や羊羹です。親父が習ってきては作ってました。
その後も商品アイテムは増えていきマドレーヌ、レモンケーキとかです。バタークリームの時代ですね。その頃には和洋菓子を作っていました。
田中
大学の時に1年間留学されていますね。
柴田氏
中学校の頃までは親父がこれだけ働いて頑張って・・尊敬します。
ところが高校になった頃には毎日、朝早くから夜遅くまで汗水垂らして正月もお盆も休みなし・・何やっているんだと思うようになったんです。
「俺はサラリーマンになって親父みたいに働かないぞ」と思いました。仕事も何かないだろうかと将来の事を考えていました。結局、大学も目的がないままに行きまして、最初の頃は大学に行っても面白くなくクラブをするために大学に行ってたようなものです。

ある時に、大学の留学制度を知ったんです。年間3人の学生が留学できるわけですよ。
それを見た時に家を出る「チャンス」だと思いました。
ただし条件がありまして、3年生までの成績がAクラスなど・・そこから目標が決まりました。
1年生の時に3年生までの目標が決まりましたからね。それから猛勉強をしました。

まず、お金を貯める為にアルバイトをし、それと英語をマスターするためにNHKのラジオ英会話を2年間聴いていました。
自分でも驚きで目標が出来たら人間こんなにも変われるものかと思いました。
「お前、大学生活充実してるね」と友人からも言われました・・それで留学は4年生の1年間アメリカに行ったんです。
田中
留学での出来事がパティシェを志したきっかけになったんでしょうか?
柴田氏
はじめは一つの目標がアメリカに行く事だったんです。行ったら次の目標がないわけですよ。
アメリカに行って、現実を見るわけです。
英語が得意な人は山ほどいましたし、頭も良くて世の中、頭で勝負するか、技術で勝負するかのどっちなのかなと・・その時に技術というものが何かないかなとず〜っと探していました。
パソコンが得意でもないし、音楽も絵も得意じゃないしと、自分には何かないだろうかと考えていました。
結局見つかりませんでした。

そんな時に文化祭があったんです。
英語を勉強する人たちが世界中から集まって来ているわけですからいろんな国の文化祭があるわけです。
それで日本の催しは、私が少林寺拳法の経験があり空手の事も分かっていたので・・空手の型を見せようという事になったんです。

ある教室でメキシコの学生がケーキを作っていたんですね。それを見て何か「ピーン」と頭に感じたんです。
私はケーキを作れるという自信はなかったんですが、中学校の時から親父の手伝いをしてまして、
本人はそれを技術だと思っていないんですよ。
その時始めて「えら〜い下手くそ」俺のほうが絶対上手に絞れると思いました。
それで、ケーキを作ったら「ブラボー」と言う、みんなの大声援を受け握手を求めてきたり「凄くうまいよ」と声をかけてくれたりして本当に感動してくれたんです。
はじめて自分に技術があるという瞬間でした。
私はケーキ屋になりたくなくてアメリカに行って、アメリカでケーキ屋になるんだという決意で帰って来たんです。
田中
そこからパティシエの修業が始まったわけですね。
柴田氏
そうです。最初は福岡の「セーヌ」で修業し、その後、神戸の「ミッシェル」で修業しました。
神戸の修業の時に親父が病気で倒れ、急遽、熊本に帰ってきました。
その時、病院の先生からうまく行っても半身不随だと言われ駄目みたいに言われていました。でも、8時間の手術の後、生還したんです。
職人は親父一人であとは、パートさんだけでしたから、私が継ぐしかなかったんです。
田中
修業時代のお話をお願いします。
柴田氏
「セーヌ」さんの時代はアットホームで家庭的な雰囲気でやってました。
神戸では朝から晩までの厳しさ”殴られる”んですよ。毎日殴られませんようにと日記に書いていたのを覚えています。
でも貪欲に覚えようと言う気持ちでした。
結局、毎年数人が入ってくるんですけど数年すると一人か、二人になりました。それだけ厳しかったですね。

文字

田中
帰られてから、後を継がれるわけですがどうでした?
柴田氏
私が帰ってからが大変でした。親父もいませんでしたし、勝手が分からないじゃないですか。
その時に人って難しいと思いました。
神戸なんかホテルプラザ出身の者ばかりでしたから縦関係じゃないですか、だから「はい」と「すいません」しか言わないわけですよ。指示出しても「はいっ」と返ってくる。でも、うちではそういう訳には行きませんでした。
パートさんを使うって全然別問題です。教えるって言うか作って頂くって感じでした。
「これしろ」「あれしろ」じゃ動かないんです。「してください」「お願いします」まで言わないと。
だから、職人さんを使うのとパートさんを使うのとこんなに違うのかと思いました。

なんで自分達は、俺のケーキを作れないくせにと思うじゃないですか・・。若気の至りですよ。だから最初は人間関係が難しかったです。親父に使われてきた人達ですよ。そこに馬鹿息子が帰ってきて、あれだこれだと指示してるんですから・・
でも親父が「ノー」って言えばノーじゃないですか。

親父が本当にそれから少しずつ復帰してくるんです。また、厨房に戻ってきたんですよ。
私は助かったんですけど、それでも人はまた親父が戻ってきたら親父に就きますよね。
一応、私がチーフだったんですが、言うこと聞かないわけです。結局孤立してしまいました。

それでも今までやって来た事、今まで修業してきた事を出したいじゃないですか。フランス菓子をしっかり習ってきましたし、私は親父のケーキは古いと思いましたし、私のケーキを並べて売ったんですけど売れるのは親父のケーキなんですよ。
私が自信持って出したケーキが売れなかったんです。

だからその時に思いました。ここは場所悪い・・ここは熊本の田舎だからはこんな場所ではフランス菓子なんか売れるわけないとか、熊本のお客様はフランス菓子を食べたことがないから美味しいと感じない。
これが本当のフランス菓子ですよと言うんですけどでもお客様は買ってくれない。
最終的にお店に立つようになりお客様と会話するようになって言われた言葉が「ケーキが小さくなった」「値段が高くなった」
「まずい」と言われました。その”まずい”と言う意味が分からなかったですね。

そうしたらお酒が効いている商品だったんです。お酒が効いている商品は”まずい”になってしまったんです。
だから非常にどこが一番修業になったかというと、実は我が家なんです。帰ってからです。悪戦苦闘でしたから・・。
田中
なるほどですね・・2代目としての苦労も多くありますね。
柴田氏
そうですね。
結局、親父のケーキと私のケーキを並べてたら親父のケーキが売れるじゃないですか、
私は周りや人のせいばかり、自分の問題は棚上げですよ。

全部周りが悪いから売れない。理由はいっぱい言えるんですよ。だから帰ってからの2年間は親父と喧嘩ばかりでした。
自分の店を持つことばかり考えていました。しかし、3年目くらいから少しずつ足並みが揃い始めたんです。
それは自分の考えが変わってきたんです。

私のお店には2代目のお菓子屋さんがたくさん見学にいらっしゃるんですよ。やっぱりそういう所は喧嘩ばかりしていますね。
だからいいんです。「3年間一緒にやって下さい」と言います。
たいてい息子さんが2年ぐらいして自分で店を持ちたいと言います。どうでしょうかと相談が来るんです。
だから私はいつも言います。3年間は一緒にやってみて下さい。

3年間一緒にやってそれから一緒に考えて、親父さんとうまくやってから家を出ないと駄目だと。
私の経験から2年間は喧嘩してました。家を飛び出そうとした。
でも止めた・・それは・・だって、お金がないですからお店を担保にしないとお金を貸してくれないですから親父が許すわけないです。
でも3年目にして分かりだしたのはお客様がどのお菓子が好きか自分で学ぼうとするんですね。

そうしたらお客様は柔らかいスポンジだとか苺とか生クリームとかあるいはモンブラン、チョコレートケーキなど分かりやすい
ケーキを選んでます。
私が作るケーキは意外と洋酒シロップでフランスの配合で何層にもなっていて手間ばかりかかるケーキだったんです。
フランボワーズとかレアチーズとかあの当時ムース系が多かったですね。
お客様は”まずい”って言うわ・・だから自分の配合を止めて親父の配合をするようになったんです。
だから親父から学びましたよ。

スポンジケーキだとかロールケーキだとか全てをです。
それをするようになって、そこから自分の技術を足して、それからですねお客様に自分のケーキが売れるようになったのは。
自分のケーキが売れるようになって、はじめてパートさん達がチーフと認めてくれたんです。

田中
その後、お店はどのようになりました?
柴田氏
4年目から売り上げが上がってきました。
2〜3年は前年対比で私が落としていましたから。理想ばっかりで、薀蓄ですね。
自分の気持ちばかり上がって、お客様に目が向いていなかったんです。だからお客様の視線に目を向けるのをあの時に教わりました。思いますが、分かりやすくお客様に発信する事ですね。

ある人から半歩進んだケーキを作りなさいと言われました。一歩進んだら駄目だと。
だから今の松月堂のケーキに半歩進んだケーキを作ろうと思いました。
田中
菓樹に改名されたのは何年前でしょうか?
柴田氏
妻と二人で異業種交流会の勉強会に行ったんですね。
2代目さんとか・・名刺交換すると「松月堂」の名刺を見て返ってくる言葉は「和菓子屋さんですか」なんです。
いや実は私は洋菓子しか勉強してません。ケーキを中心にやっています。
皆さん言われるのは「松月堂という名前は和菓子屋の名前ですね」2代目さんは屋号を変えるというのがポイントなんです。

私はゼロから始める人がどんなに羨ましかったか。同じように修業しても2代目だからいいねとよく言われるんですけど、
でも2代目って精神的にめちゃくちゃ苦労します。
ゼロからがいちばんいいです。気は楽ですよ失敗してもゼロですから。店の名前もどんなにオシャレでもいいし、何処に出してもいいわけでしょう。ところが2代目は大きな看板を背負っていますから。

だから私は松月堂の良い所と悪い所を箇条書きにして親父に見せました。
でもいざ親戚一同集まった時に屋号を変えるというのは大反対でした。
ところが親父がいいって言ったんです。親父の鶴の一声です。

だからそこからですね。名前を考えたのは。でも私は前に場所が悪いとか不平不満ばかり言ってたじゃないですか。
でも、この場所で勝負をしたかったんです。場所が悪い所を良い所に変えたかったんです。
名前は変えるけれども分かりやすい名前にしたかったんです。初めは”菓子の樹”と言う名前を考えたんですが、もっと分かりやすく”菓樹”にしました。1991年です。また、その時にはじめて職人を雇いました。

田中
菓樹にして改築もされて、洋菓子中心で始められるわけですか?
柴田氏
そうです。だけど、基本的には松月堂でお世話になってましたんで名前は変わりましたけど基本は松月堂です。
カステラもあります。マドレーヌ、レモンケーキもあります。ただ私はパッケージ(衣)を変えただけです。ステージを洋風に変えただけです。
菓樹にしてお店も改築しました。木のぬくもりがあるお店にしました。一番うれしかったのは友人が来た時に「あ〜お前らしいお店を作ったね」と言われた時です。

お客様からも評判が良くてありがたかったです。
自分がブランド志向ではないし、高級志向でない人間が高級志向のお店を作っても合わないし、自分の性格に合ったお店を作ればいい、自分の性格に合ったお菓子を作ればいいと思いました。
だから心とお菓子とお店が三位一体がいちばんいいと思いました。
田中
菓子職人にとって大切な事は?
柴田氏
目標を失わないことです。志を立てること
田中
これから菓子職人になろうと思っている人にアドバイスがあればお願い致します。
柴田氏
とにかく夢を書いて目標にしてください。夢を書きなさいと言いたいですね。
それが書けますか?書けない人は止めた方がいいです。
こうなりたい自分の姿とか書いて誰にでも見える所に張って下さい。
自分の夢とか目標を公言できないと・・書かないと目標にならないんですよ。夢は書く事から始まる。自分が大学の時に留学という夢あったじゃないですか。
自分で書いたんですよ。2年後にアメリカに行くってそれを書いて張っていました。
何が何でも行くって力強かったですね。
その力強さが夢を書いたことによって目標になって、目標になったら今度は何をするのか決まってきます。
計画が決まってきます。特に職人などの技術職なんか厳しいですから。
田中
本日はありがとうございました。
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