吉野
生年月日とご出身地を教えてください。
棟田氏
1948年8月22日愛媛県松山市の出身です。
吉野
松山市といえば道後温泉で有名ですね。
小学校の頃、好きだった科目は、ありますか?
棟田氏
特にありませんが、
国語よりも成績が良かった算数が好きでした。
吉野
一番最初に洋菓子にふれたのはいつですか?
シェフ
棟田氏
時代的なものもあるとは思いますが、高校までケーキというものを食べたことがなかったんですよ。
高校3年のクリスマスの時だと思うのですがクリスマスケーキを食べました。
今とは違って生クリームではなく、バタークリームでした。

高校を卒業して勤めた会社が、地元でも有名な「一六本舗」という菓子会社なんです。 そこで、配属されたのが、洋菓子を作る部署だったんです。 でも、仕事でやっていただけで自分の店を開くとか菓子職人になる道があるとは当時は知りませんでした。
吉野
会社では、どういう仕事をやっていたんですか?
棟田氏
窯から仕上げまで基本的な事はさせていただきました。先輩も懇切ていねいに教えてくれて、仕事自体は面白かったですね。
吉野
菓子職人になろうとした具体的なキッカケはあるのですか?
棟田氏
「ガトー」という洋菓子業界の雑誌があるんですが、外国でパティシエとして活躍している方々の記事が掲載されています。
それを読んで憧れを持ったんです。
フランスに行きたい。フランスで修業してみたいという気持ちが出てきたんです。

ですから、松山ではなく東京に行ったほうがフランスに行くのにも色んな情報が入ってくるのではないかと思い、まずは、東京に行こうと思いました。もう、その時には、自分の店を持ちたいという思いがありました。
吉野
東京へはいつ行かれたんですか?
棟田氏
会社に入って3年たっての頃です。
当時ヨーロッパのお菓子を作っている一番有名だと聞いていたのが「エスワイル」というお店でしたんで、そこに入れてくれとお願いしたんですが、今は一杯なんで、うちで修業して独立された方の店を紹介してあげようという事で、ご紹介頂きました。
吉野
何というお店ですか?
棟田氏
「成城アルプス」という店です。入ったのは、昭和45年頃だったと思います。
吉野
一六本舗と成城アルプスでは、仕事のやり方とか違いはありました?
それと東京での店は厳しかったですか?
棟田氏
微妙な部分では、違いはありましたが、基本的には大きな違いはありませんでした。でも深さが違うのかなと思いました。
成城アルプスの場合は、やはり、本場のフランス菓子をベースにして作るものですから色んな素材を組み合わせてお菓子を作っていましたので、お菓子の奥深さを知ったような気がします。
厳しいと思って入社したのですが、オーナーはじめ先輩方も非常に分かりやすく教えていただいたという記憶しかありませんね。
吉野
親切に教えたのは棟田オーナーの人柄ではないでしょうか?
棟田氏
そんな事はありませんが、うちの店でも分らない人に厳しくしてもよけいに分りませんから、懇切丁寧に教えますよ。
要は、相手の人格を肯定することが大切ですね。
吉野
成城アルプスさんには何年おられたんですか?
棟田氏
2年半いました。その後、3年間色んな国で修業しました。
スイスに9ヶ月。フランスに21ヶ月。イタリアとカナダに3ヶ月づついました。
吉野
外国での修業は、どうでした。
棟田氏
当時は、いい時代でした。
スイスでは労働ビザも取れましたし、給料もちゃんといただきましたね。
私がフランスに行った後の時代の方々は、苦労されたと聞きました。

当時、ヨーロッパの経済事情が悪化して、国内の労働者を優先するために外国人の労働者に労働ビザが発行されなかったので、無給で働いたりした方々がいましたね。
それに比べると私たちの時代は良かったと思います。
色んな国々で色んなお店を回ってきたんですが、仕上げが雑な店もあれば、キチンと美しく仕上げているお店もありました。

でも、長く滞在していると、そういうお菓子の表面的な部分よりも、お菓子の歴史的な部分に関心させられてお菓子が本当に生活の一部になっているんだなと思いましたね。
それに、その店なりの味への工夫や深さを感じられるようになってくるのです。
吉野
言葉に対して抵抗はありませんでしたか?他に何かご苦労されたことはありませんでしたか?
棟田氏
最初は、言葉は聞き取れなかったんですが、お菓子を作るという部分での会話だったので、言葉の細かなニュアンスは分からなくても、時が経つと慣れてきました。
初めの頃は、覚えるのに必死でしたが、ある程度理解できるようになると私の場合は進歩しなくなりました。
他には、苦労したという部分はあまり、感じませんでした。

昼間食事に行ったときは、ワインを飲んでやたら眠くなったのは覚えていますね。
日本で、昼ごはんでアルコールを飲むという習慣がありませんが、当時フランスでは、日常的に飲んでいました。
吉野
帰国されて、どこかに勤められたのですか?
棟田氏
帰国後は、銀座木村屋で洋菓子のシェフを4年間勤めました。
吉野
4年後、独立ですか?
棟田氏
はい、昭和54年に世田谷の豪徳寺駅の近くの商店街に「ル・サントノーレ」という店名で店を出しました。
吉野
世田谷だと家賃とか高くなかったですか?
棟田氏
木村屋の4年間で貯めた資金で、何とか間に合いました。居抜きで借りたんで安かったですね。
吉野
店をオープンされて売れるという確信はありましたか?
棟田氏
店を出してすぐに結婚したんです。ですから自信もあったし、はりきってもいました。
「売れすぎたらどうしよう」という心配をしていました。
ですが、あまり売れませんでしたね。勤めていた時のほうが収入がよかったです。
吉野
では、最初は、苦労されたんですね。原因はなんだったんでしょうか?
棟田氏
そうですね。一番感じたのは、立地の悪さですね。
豪徳寺駅にも、その近くにも洋菓子店がありまして、お客様がわざわざ駅から歩いて商店街のうちの店までは来なかったのが原因かなと思いました。そんな時に木村屋で一緒に働いた方が、喫茶店の店長をしていたので、
「うちの喫茶店にケーキを卸してよ」という、ありがたい言葉をいただいたんです。
一時は、店の売り上げの半分は、その喫茶店に卸してました。
吉野
場所ってのは大事な要素もあるんですね。
棟田氏
そうですね。最初の店を出してから5年経って世田谷の梅丘に「アルパジョン」という2番目の店を出しました。
その7年後の平成3年に3店舗目にあたる「ヴォアラ」という店を同じ世田谷の桜丘に出しました。
吉野
その店は、ル・サントノーレの支店という位置づけなんですか?
棟田氏
同じ店の支店という感覚ではありませんでした。生ケーキもそれぞれの店で個性を出すようにしましたから。
吉野
ル・サントノーレは、閉店されたんですか?

文字

棟田氏
はい、オープンから15〜6年目に閉店しました。今はマンションが建ってます。
吉野
それから「季の葩」という店ですよね。でも「季の葩」を「ときのは」って読めませんでした。
棟田氏
平成10年にオープンしました。店名は、プランナーの先生にお願いしました。
世田谷は、江戸時代から賑わいのある街で、現在でも代官屋敷やぼろ市があります。
都内でも江戸時代が色濃く残った場所のひとつです。

そこで、焼き菓子のパッケージデザインにしても江戸情緒という部分を強調したんです。
季節の「季」と書いて、「とき」と読んでいただき、「葩」と書いて「は」と読んでいただくのですが、昔の人が感じた時や季節の移り変わりを感じていただけるようにという意味合いがあるのです。
吉野
現在、息子さんが別の洋菓子店で修業中ということですが、どちらで修業されているのですか?
棟田氏
福岡の飯塚市という所にある「セゾン」さんで修業しています。
吉野
杉岡オーナーのお店ですね?
棟田氏
はい、ある方を通じて杉岡さんとは親しくさせていただいているのですが、息子が業者さんに案内されて「セゾン」さんに行った時に、そのお店の雰囲気やお菓子に感動して「この店で働きたい」と言ったんです。
吉野
そうなんですか。いつかは、跡継ぎということになりますね。
棟田氏
はい、その予定ですが、これからも色なんものを吸収してもらいたいですね。
吉野
棟田オーナーが今後目指しているお店というのは、どういうお店ですか?
棟田氏
今後というよりも、現在もなんですが、お客様のご要望にできるだけ沿いたいと考えています。
バースデーケーキにしても「このキャラクターで作って」と言われれば、できるだけ最善の努力は惜しまずにやりたいですね。

吉野
パティシエになりたい方々へ、何かアドバイスがあれば。
棟田氏
離職率が高い業界でもあるのですが、一概に辞めていくなりの理由もあると思います。
お店側にも問題があるという側面もあるので、勤める前にしっかり、自分に合った店を見極めるということも大切です。

でも、言えることは、辛くても3年・4年・5年と続けることですね。
理想と現実のギャップがあるとは思いますが、夢は必ずかないます。

私だって「ガトー」に載っていたパティシエの方々を見て、フランスやパティシエに夢や憧れを持てたのですからね。
最近、洋菓子の専門学校が多くなってきましたが、他の洋菓子店も同じだと思うのですが、うちの場合も、専門学校に行っても行かなくても大丈夫です。ただ、行けるのなら行ったほうがいいと思います。

専門学校で体験したものが、すぐにではなくてもいつかは、大いに役に立つことがありますから。
また、そういう気構えでいて欲しいですね。

私もフランスで修業しましたが、フランスに行った行かないというのは、問題ではないと思うんです。
でも、本場のフランスで「お菓子って何だ」とか「お菓子が造られた歴史」に少しでも触れることができて良かったと思っています。
要は、パティシエにどうしてもなるんだという気構えや決意が必要だと思います。
吉野
今日は、本当にありがとうございました。
戻る

Page Top