吉野
生年月日とご出身地を教えてください。
木村氏
1975年の3月20日、出身は福島県いわき市です。
吉野
小学校の頃に熱中した事とかありますか?
木村氏
子供の頃から板前になりたかったんですよ。
父も板前になりたい時期があったんですが、事情があり普通の会社のサラリーマンになったんです。いつも家で料理を作っていて、それを幼い頃から手伝っていたんです。父には「お前、板前になれ」って言われてましたから、その影響ですね。
シェフ
吉野
どんな理由で板前志望が菓子職人になったんですか?
木村氏
漬物が食べれないんです。
小さな頃にテレビで日本料理を紹介する番組を観ていて、「京料理」の板前さんに憧れたんです。
京都と言えば、漬物ですよね。それが、食べれないと板前にはなれないと分ったんです。
吉野
では、菓子職人に方向転換するキッカケはどんな事だったんですか?
木村氏
高校の頃に、スパゲッティ屋さんでバイトしてたんです。
そこのシェフが元々都内でフレンチのシェフをやられていた方で、休憩時間とかにシュークリームとか作ってくれたんです。
自分でも帰って家でやってみるんですが、シューの皮がうまくふくらまないんです。
そのうちに菓子作りにのめり込んでしまったんです。
そこのシェフに「菓子屋やりたいんです」と相談したら、その方の知っている会社を紹介していただいたんです。
吉野
どんな会社ですか?
木村氏
レストランで出すお菓子やケーキを作っているお菓子の製造部門でした。
その方と横浜の、その会社まで行って、社長にお会いしたんです。
それで、「高校卒業したらうちにおいで」ということで高校1年の時に就職が決まったんです。
吉野
では、高校卒業してから、ずっとお菓子業界ですね。
木村氏
そうです。僕は、4人兄弟の末っ子なんですが、上二人に父が板前になれって言ってたんですが、ならなかったもんですから、僕に期待してたんです。
でも、板前じゃなく菓子職人だったんで、最初はがっかりしたんですが、同じ食べ物商売だからと喜んでくれました。
吉野
どうでした。菓子職人の仕事は?
木村氏
勤めて3ヶ月で田舎に帰ろうと思いました。
吉野
厳しかったんですか?
木村氏
多摩プラーザにある「テラズ」というフランス料理店のパティスリー部だったんですが、1階が菓子工房で、2階が寮だったんです。
先輩と3人で一部屋なんですよ。
毎日、仕事が終わると先輩のまかないを作り、朝から晩まで、そこから1歩も出ることなく1日が終わるんです。
寮の2人の先輩は、夕食が終わると遊びに出かけるんです。
夜は何もすることがないんですよ。
吉野
仕事の厳しさと言うよりも、孤独だったんですね。
木村氏
そうですね。それで、仕事が終わると車で湘南へ海を観にいっていました。
海を観て泣いてましたよ。1年間で70回は行ってました。
夜、食事を済ませ、海を観ながら夜を明かして、朝職場に帰ってました。
吉野
でも、辞めなかったんですね。
木村氏
紹介していただいた方から3年は辞めるなと言われてましたから頑張りました。
それでも、休みの日には、色んな洋菓子店に行って食べ歩きをしていました。
こんな美味しいケーキがあるんだと感動しても、どうやって作るのかが分らなかったんです。

先輩からお菓子やケーキの作り方を習ったんですが、何がお菓子作りの基礎なのかも分からずに言われるままに作業している毎日でした。でも、パティシエになろうという気持ちだけはありましたね。
フランスにも行って勉強したいと思っていましたので、3年間は続けました。
吉野
3年間でお辞めになって、その後、どうされたんですか?
木村氏
田園調布で洋菓子を卸している店から「うちで3年働いてもらえば、1年間フランスに行かせてあげる」という声をかけてもらったんです。フランスと言う言葉に惹かれて、そこに入ったんですが、そこは、コンビニなどに卸すケーキを作るところだったんで、カットだけで作業が終わりとかいう、だれにでも出来る仕事だったんです。
世の中には、色んなお菓子作りがあるんだという勉強にはなりましたが、せっかく声をかけていただいたんですが1週間ほどで辞めました。

やはり、手作りのぬくもりの感じられるお菓子を作りたいという気持ちがあって、できればフランスで修業されたシェフの元で修業してみたいという気持ちが強くなってきたんです。
吉野
それから、どうされたんですか?
木村氏
その頃、吉祥寺に金子シェフが「レピキュリアン」という店をオープンされてたんですが、そこのお菓子が美味しくて感動してたんです。それで、スーツを着て、履歴書を持ってアポなしで店まで行ったんです。
その頃は、オープンされてまもなくの頃で、スタッフも揃っている時期だったんで、「空きができたら連絡するから」ということで、バイトでもして待とうと決めました。
幸いにも知人から「新しくできる結婚式場に併設されるレストランで菓子を作る仕事があるけどやってみないか」という話があったんです。
吉野
そこで、アルバイトをされたんですか?
木村氏
はい。でも当時まだ21歳ですし、ケーキ作りも自信があるというまではいってなかったんですが、紹介してくれた方が「お前ならできる」と後押しされまして。そこの料理長も理解がある方で、「1ヶ月でも2ヶ月でもやってごらん」と言ってくださったんです。
広い厨房に僕ひとりですよ。
そこがオープンしてからすぐに婚礼が入ってきて一度に数百人分のケーキを作るんですよ。
今までの職場は、卸のケーキだったんで、食べている人を知らないんです。
そこではダイレクトに反応が返ってきたんです。
吉野
と言うのは?
木村氏
うちのトレードマークになっているんですが、苺に顔を描いてケーキをお出ししたら、それに皆さんが本当に喜んでいただいたんです。自分が作ったもので喜んでいただける事を始めて味わったんです。
そこからですね。自分で本当にお店を持ちたいと思ったのは。
吉野
そこには、どの位いらっしゃったんですか?
木村氏
2ヶ月です。2ヶ月経ったので「レピキュリアン」に行ってみたんです。
そしたら、「欠員があるから来てくれ」って言われたんです。嬉しかったですね。
吉野
いよいよ、本格的にフランス菓子に触れるんですね。
木村氏
・・の、はずだったんですが・・・。半年で辞めたんです。
吉野
どうしてですか?
木村氏
最初は、見るものやるもの全て新鮮だったんでワクワクしていました。
でも、菓子職人の本当の凄さっていうか・・厳しさっていうか・・・自分が今までいかに、基礎が出来てなかったかを思い知らされたんです。それは、それは厳しかったですよ。

今までは、どちらかと言うと「洋菓子っぽいもの」をやっていました。
それでも短期間でも一応シェフとしてやらせてもらった時があったんで、多少の自信はありました。
でも、レピキュリアンに入ったら初心者なんですよ。お菓子の素材も違う。素材の扱いも違う。
お菓子の作り方や考え方の違いに驚いてしまって、同じ洋菓子職人なのにこの違いは何なんだと思いました。
あんなに好きだったお菓子作りが楽しくなくなったんです。
それから店を辞めさせてもらいました。
吉野
それで、どうされたんですか?
木村氏
辞めてから2週間自分の部屋に引き篭もったんです。
吉野
何もする気が起きなかったんですか?
木村氏
そうです。菓子屋をあきらめようかと思い悩んでいました。
そんな時にテレビでたまたま子供が美味しそうにケーキを食べているシーンを観ていて。
自分のふがいなさに情けなくなってきて、涙がとめどもなく出てきて、おいおい泣いてしまったんです。
「俺は、このままでは、終わらない。いや、終わりたくない」と再度、菓子屋になろうと気持ちも新たにしたんです。
吉野
やはり、自分のお菓子を食べていただいて、多くの人に喜んでいただきたいという気持ちがあったんですね。

文字

木村氏
そうですね。自分の原点を再確認しました。
早速、求人誌を買ってきて職探しをしました。そして、帝国ホテルのベーカリー部門の求人に応募したんです。
将来自分がお店を持つときには、「レピキュリアン」みたいなお店にしたいという思いがあったんです。
「レピキュリアン」では、ケーキの他に、パンも作っていたので、将来、役に立つと思ったんです。
ですから1年間という期間で勤めることにしました。
吉野
いかがでしたか「帝国ホテル」は?
木村氏
山崎さんという方に色んな意味で職人の凄さを教えていただきました。
この方が、次の年に、クープ・ド・モンドでキャプテンとなり、優勝されるんですが、その予選の最中で、パン作りを追求している時だったんです。クープ・ド・モンドは、パンと洋菓子が1年交代で交互にあるんですが、フランスのリヨンで行われるんです。
ですから、私が帝国ホテルに入った時には、山崎さんは、「小麦粉を10グラムふやしてみよう」とか「ミキシングを10秒長くしてみよう」とか細かな作業をされていました。そこまでやるのか!!という事を毎日、毎日やっておられたんです。
そんな山崎さんの作業を、横で見られたんですから凄く刺激を受けました。
吉野
それは、またとない経験でしたね。帝国ホテルの1年間の後は、どこに行かれたんですか?
木村氏
銀座の和光さんです。業者の方に、お願いして面接に行って、幸いにも入れていただけるようになりました。
当時は、現在調布で洋菓子店を経営されている武江さんがシェフをされていたんですが、私が入る時に、ちょうど入れ替わりに新宿の「ラ・ヴィ・ドゥース」のオーナーシェフの堀江さんが、フランスから帰られてきて和光のシェフになられた時でした。
吉野
どうでした。堀江さんと一緒に仕事をやられて。
木村氏
私は、人に恵まれていると思っています。先輩方に本当にいろいろ教えて頂きました。
金子さんには、職人としての真剣さ。山崎さんには、もの作りを追求する職人としての姿勢。堀江さんには、プロの職人としての合理性を教えて頂き、今までの自分の無駄な部分の多さを自覚できました。

堀江さんが和光におられる時には、夕方4時か5時には帰れるんです。
普通なら考えられませんよね。
堀江さんの仕事は、とにかく速い。これが、プロなのかと感動しました。それから、物事を考えて行動することの大切ですね。

私の場合は、有名店のレシピを集めて喜んでいたんですが、堀江さんから「レシピは、必要ないんだ。粉と砂糖、そしてバターがあったら何を作るの?」「自分で、それを考えるのが一番大事だよ」と教えていただきました。
それと毎日色々質問されるんです。鉄板1枚でケーキ何個作れる?何番のセルクルで何個抜けるか知っている?・・・それが、分らないと、どれだけ生地焼けばいいかわからないでしょ・・・とか。バターは何度で溶ける?・・・とかですね。分らなかったら「それ、宿題ね」と言われるんです。今、自分が何をしようとしているのかを常に考えて行動しろって言われました。
堀江さんも、その頃、クープ・ド・モンドの世界大会を目指していた時期なので、堀江さんの横で洋菓子の考え方を学ぶ事ができました。
堀江さんは、キャプテンとしてフランスに行かれ、個人部門で優勝されるんです。
山崎さんと堀江さん。2人の方々を間近で見れたというのは、本当に幸運でした。
吉野
真剣さ。もの作りへの追求する姿勢。プロとしてのものの考え方ですね。
木村氏
和光には、チョコレート専門の川口さんという方が、シエフでおられたんですが、その方にもチョコレートに関しての事を専門に色々教えていただきました。
チョコレートの事を質問すると1時間くらい講習になるんです。
「ああ、川口さんって本当にチョコレート作りが好きなんだな」と思って毎回楽しみにしていました。
それと、フランスから講師の方が来ると「店はいいから講習のアシストに行って来い」と快く行かせてくれたんです。
それが、凄く勉強になりました。
吉野
本当に、木村オーナーが言われるように、人に恵まれているんですね。その後は、どうされるんですか?
木村氏
そうです。本当に、ありがたいと思っています。
和光に入って3年たった時に堀江さんが、自分の店をオープンされるという事で店を辞められたんです。自分も辞めようかなと思ったんです。
実は、その頃に、茨城でシェフをやらないかという話が来たんです。
そして色んな方に相談しました。
皆さん賛成してくれたんですが、堀江さんだけは反対でした。「お前は、まだまだ、勉強しなくてはいけない。銀座は、日本のど真ん中で、世界中の素晴らしいお菓子の素材や情報が集まってくる。後、何年か居て自分の力を磨け」と言われたんです。
それから、2年間和光で勉強しました。結局5年間和光にお世話になりました。
吉野
その後、自分の店をオープンされるんですか?
木村氏
はい。川口さんが気をかけてくれて、業者の方々を紹介していただいてたんです。様々な方々の応援で店をオープンしました。
今、店のある物件も妻の実家の持ち物なんです。
当時、妻と付き合っている時に、結婚の話になって、どうせ店をやるんだったら、ここを使いなさいと妻の祖父が格安で貸してくれました。何しろ、貯金がなかったものですから、ありがたかったですね。
でも、改装費用や、窯などの設備にかなりお金がかかり、融資も希望金額が出なかったんです。
業者さんに無理を言ったり、何とかやりくりをしながらの開業でした。
吉野
資金面での苦労以外に大変だった事はありますか?
木村氏
当時、3人スタッフを入れたんですが、オープン前1週間でひとり辞めて、オープンして3日でひとり辞めて、それから1ヶ月で最後のひとりが辞めたんです。
それでも、2日間は、ひとりで営業しました。泣きそうでした。
堀江さんに相談したら、堀江さんの店から1週間づつスタッフを応援に出してくれて何とかしのぎました。
それで、スタッフを補充しながらやってました。でも、オープンの1年間は、毎日夜中の2時まで仕事してました。
吉野
大変でしたね。1年間は。
木村氏
お菓子作りはもちろん、経理からスタッフの管理などにも気を配らないといけないので、オーナーシェフの大変さが本当によく分りました。
吉野
オープンは、いつですか?それと、店名の由来などは?
木村氏
オープンは、2003年3月31日です。
これは、私が、高校を卒業して菓子屋を目指して来た日なんです。10年前の3月31日に福島から出てきたんです。
その頃から10年で自分の店を持とうと決めていました。
普通店のオープンと言えば、土曜日か日曜日なんですが、私の10年目のオープンの3月31日は、平日だったんですが、これには、こだわりたかったんです。

店名は、フランス語なんですが、日本語に訳せは、「天使の微笑み」です。
これも、10代の頃から決めていました。
お子さんに喜んでいただける菓子屋にしたいという気持ちがあったんです。大人も昔は、子供だったですからね。

吉野
国分寺という地域はどうですか?
木村氏
国分寺市には、「旧鎌倉街道」や「武蔵国分尼寺址」とか「武蔵国分僧寺址」があり、歴史のロマンを感じる事ができる素敵な街です。
ここに住んでとても満足していますし、私も所属している「むさし商興会」と国分寺市が中心となり昔あったという「七重塔」の再建実現の運動をしています。
地域の皆で街を住みやすくしていこう、誇れる街にしていこうという気持が強いんです。
本当にあったかい人が多く、住みやすい街です。

うちの店には、外からお菓子を作る様子を見ることのできる窓があるんですが、学校帰りに小学生が、毎日のように長い時間のぞきこんでいるんです。
ああ、こういう菓子屋になれて良かったと思っています。
自分自身は、フランスに憧れがあり、フランス帰りのシェフの元で修行してきました。
だからフランス菓子にこだわるべきかどうか悩んだり、自分の店で、どういうお菓子を作ろうかと迷っていた時に、フランス菓子で有名なある洋菓子店のオーナーに「良い材料を使って、できるだけ安くお菓子を出せるのが菓子屋だ」と言われたんです。
そうなんだ、フランス菓子うんぬんというよりも自分は良い材料で出来るだけ安くお菓子を提供して、地域の方々に喜んでいただける菓子屋でいいのではないかと思ったときに肩の力がふっと抜けて自然体でお店をやって行こうと決心したんです。

品揃えも小さなお子さんからご年配の方まで安心して美味しく食べていただくことを中心に考えています。
それと、お客様は、ショーケースの生ケーキを求めてお越しになっていると思いましたので、ショーケースの充実にも力を入れています。最初の頃、何人かの方に「ケーキ、小さいわね」と言われたんで、サイズを大きめにしました。
そういう風に、この地域の方々から教えていただいたのが励みになっています。
もちろん自分が美味しいと思った意欲的なお菓子もどんどんお客様に提案していきたいのですが、この国分寺で菓子屋をやっていくからには、ここに住んでらっしゃるお客様と一緒の目線に立ってお菓子作りをしていこうと思っています。
吉野
パティシエになりたいという方にメッセージをお願いします。
木村氏
物事をとことん追及する姿勢が大事です。
菓子屋になりたい人は、自分がお菓子を作る事で人を喜ばすことが好きだと思うんです。それを大事にしてもらいたいです。

それは、自分の反省も込めて言うのですが、修行の辛さで、その部分を忘れがちになるといけないと思います。
修行は、辛いものですが、自分のお菓子でお客様の喜んでいる顔を見ると、その辛さは吹き飛んでしまいます。
自分がそれを実現するために菓子屋になるんだったら、お客様の喜ぶ顔を思い浮かべて日々の仕事をとことん追及していって欲しいですね。
どんな小さな事でも無駄な事は絶対ないですから。菓子屋の夢をあきらめないでもらいたいですね。
吉野
本日は長い時間ありがとうございました。
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