吉野
生年月日とご出身地を教えてください。
堀江氏
1967年の1月13日、出身は神奈川県の横浜です。
吉野
小学校の頃は、どういうお子さんでした?
また熱中した事とかありますか?
堀江氏
学校から帰ると友達と野球やったり、メンコやったり、まあ普通の子供でした。熱中していたのはバイオリンですね。
吉野
バイオリンは、何年間やられていたんですか?
シェフ
堀江氏
9年間です。最初は、母から無理やりやらされてました。でも、今思えば感謝しています。
吉野
と言うと?
堀江氏
バイオリンを長くやっていたお陰で物事を続けていくというのが、さほど苦ではないんですよ。
始めたのは幼稚園の頃からですから訳も分らずにやっていました。でも、いやいやながらやった事でも、長いことやっていると習慣になってきて嫌ではなくなるんです。この「続ける」という事が、菓子職人には、とっても大切なことなんです。
吉野
菓子職人になったキッカケというのは何ですか?
堀江氏
最初は、板前になりたかったんです。
高校時代に始めてバイトした所が天ぷら割烹の店だったんですが、そこの女将さんがきれいな方で、着物を着ての立ち振る舞いがとても上品だったものですから、憧れもあって、料理を作るという仕事に興味を持ったんです。
吉野
では、板前になるつもりだったんですか?
堀江氏
はい、高校を卒業してからは板前を目指して大阪の辻調理専門学校に行きました。ただ、両親は、反対でした。
父は普通のサラリーマンだったんで料理店で働くという事は、イコール「水商売」という印象を持ったんだと思いますが、最後には、認めてくれました。学校には、無遅刻無欠席で通いました。
吉野
やる気満々だったんですね。
堀江氏
「和食の職人は、10年が修業」だとか「厳しい世界だ」とか聞いていたので、自分なりに頑張らなければと思ったんです。
吉野
卒業後は、どいいう経緯でお菓子業界へ行かれたのですか?
堀江氏
ほんのささいな事がキッカケになったんですが、就職活動で銀座の寿司店に面接に行ったんですが、手土産に、ちらし寿司とケーキを持たせていただいたんです。
帰ってケーキを食べていたら、「洋菓子職人という世界もあるんだ・・・」と、ふと思ったんです。
板前に憧れていたのは確かなんですが、時代の空気が「和」よりも「洋」のような感じがしたんです。
そして、外国から入ってきた新しいものというイメージのあったパティシエという道に新鮮な魅力を感じたんです。
随分悩みましたが、洋菓子へ方向転換しました。
吉野
卒業後は、どこに行かれたのですか?
堀江氏
神奈川の葉山にあるフランス茶屋です。
吉野
フランス茶屋での仕事は、どうでしたか?
堀江氏
横浜の中華街にある工場勤務だったので寮生活でした。一人一部屋という快適な環境ではなく、2段ベッドでの集団生活です。
朝5時から夜遅くまで働きました。
休みは、週1回だけで、相当きつかったですけが、他の職業と比べる事もなかったので、それが当たり前だと思っていました。
吉野
職人の世界って感じですね。
堀江氏
そうです。職人の世界は、体育会系ですよ。
元気よく挨拶する事から始まって、上司や先輩には、「はい」と大きな声で返事をするというのが基本でした。
自分なりに先輩たちが今何を求めているかを察しながら動いていたので、朝は先輩にお茶を入れたり、雑用も嫌な顔をせずにやってましたね。けっこうかわいがられていたと思います。
吉野
殴られたりとか道具が飛んできたりとかありました?
堀江氏
ありました。ただ、私たちの仕事は、毎日真剣勝負なんです。
お客様の口に入るものを作って喜んでいただくことは私達の仕事の基本ですから。
吉野
なるほど。お客様が一切の基準ですね。
堀江氏
そうです。お客様を第一に考えないといけないんです。
どんなに忙しい時にでも「お客様の口に入るもの」という根本的な事をおろそかにした場合には、きちっと教えてあげないといけないと思っています。自分で店を持った時にとんでもない事が起こってからでは遅いんですから。
吉野
フランス茶屋は何年勤務されたんですか?
堀江氏
4年半です。
吉野
では、その後は、どうされたんですか?
堀江氏
実は、菓子職人への気持が冷めてしまったんです。
吉野
どういう事ですか?
堀江氏
フランス茶屋に入る前から、自分で洋菓子店を開きたいという気持ちはあったんで、早く一人前になりたくて一生懸命頑張ってきました。それに、フランスに行って菓子の勉強もしたいと思っていたんですが、給料も少ないし、本当にフランスに行けるのか?店が持てるのか?という迷いっていうか疑問が沸いてきたんです。
こんな気持ちじゃだめだな〜と思う毎日が続いて・・・。
前みたいにお菓子作りに情熱が持てなくなってきて菓子職人やめようと思ったんです。
吉野
本当に菓子職人やめたんですか?
堀江氏
はい。父の会社に入り、サラリーマンをやりました。これでいいんだと思って新しい職場で心機一転頑張ろうと思ったんです。
ただ、サラリーマンをやってても色々悩みました。
今まで菓子職人目指してがむしゃらにやってきた事を思い出しては、それを打ち消して仕事を続けました。
20代って将来の事に悩む頃ですから、色んな葛藤がありました。でも、最終的には、やはり菓子職人が性に合っているんじゃないかと思ったのと、どうしてもフランスに行ってみたいという気持ちが抑えきれずに、3ヶ月で会社を辞めました。
吉野
なるほど。菓子職人になるという気持が改めて固まったんですね。
堀江氏
はい。父や会社の方々には、本当に申し訳なかったと思っていますが、他の仕事をしてみて、自分には、菓子職人しかないと思いました。
もう迷いはなかったです。
吉野
それから、どうされたんですか?
堀江氏
フランス茶屋の先輩の知人が銀座和光のルショワにいらっしゃったんで、そこに入れていただきました。
フランス茶屋では、プリンやシュークリーム、ショートケーキなどの親しみやすい洋菓子だったんですが、和光では、銀座という土地柄もあるとは思いますが、色んな素材を使ったより手の込んだフランス菓子が中心だったんです。
ですから、材料を含めお菓子に対する考え方が違っていました。
その全てが新鮮で、日本の中心でお菓子を作っているという感動の毎日でした。
それに銀座という町は、フランスなどの情報や素晴らしい素材や材料が集まってくる場所でもあったし、和光の先輩にもフランスで修行していた人もいましたから、フランスがより近くなってきたなという思いはありました。
吉野
ついに、フランスですね。
堀江氏
はい。和光で2年半働いて、フランスに行きました。
吉野
言葉には、苦労されました?

文字

堀江氏
言葉の壁は大きかったですが、私たちの仕事ってレシピがあれば何とかなるもんなんです。ですから、最初の頃は、友人と有名店のレシピを交換して集めるという事で満足していました。でも、ヴァローナで働いた時に、レシピを集めるって事は、何て次元の低い事であるのかと実感し衝撃を受けたんです。
吉野
それは、どんなことですか?
堀江氏
「レシピはいらない。そんなものは自分で考えろ」と言われたんです。お菓子というのは、カスタードクリームがあって、ソースがあって、メレンゲがあって・・・焼き菓子の素材比率は、だいたい決まっている。皆、その中で考えて作っている。ちょこちょこいじくっているだけでたいした差はないんだ。だから自分で生み出す力を付けないといけない。お菓子って何だという事を真剣に考えないといけないと教わったんです。
吉野
なるほど。
堀江氏
レシピよりも自分で考える事の大切さを学びました。ですから、その前提としてお菓子って何かを知らなければならないんです。洋菓子の組み合わせは、油と水の関係です。マヨネーズと一緒の原理です。和菓子は、油分がありませんから、煮詰めて味を濃くしていくんですが、洋菓子は、油と水を乳化させてきた歴史です。つまり水と油がいかにきれいに乳化するかに尽きるんです。
吉野
なるほど。洋菓子は、水と油などの異なる素材の組み合わせなんですね。
堀江氏
これは、お菓子だけではなく、料理の世界でも言えることですが、和食の基本は、AプラスBイコールAなんです。つまり、「刺身」プラス「ワサビ」という関係は、「刺身」を引き立たせる為に「ワサビ」を使うんです。つまり、Aを引き立たせる為にBがあるという考え方です。しかし、洋食の場合は、AプラスBイコールCです。例えば、魚とソースで新しい味を作るフランス料理では、Aの素材とBの素材を足してCの味を出す。フランス菓子も同様にAプラスBイコールCです。甘味と酸味、苦味とかの組み合わせで新しいお菓子の味を作るんです。フランボワーズを使ったお菓子を作ろうと思ったら、その酸味に何を足していくのかを考えて、他の素材を当てはめていくのが私のお菓子作りの原点です。
吉野
なるほど。素材と素材の組み合わせを自分で考える事が大切な事なんですね。
堀江氏
そうです。ただ、何でも組み合わせて作ればいいというものでもないのです。異なる素材を合わせていくのですから、つまり水と油を合わせていくのですから、原則を知らなければなりません。カカオバターは何度で固まり、何度で溶けるかを知らなければいけない。これって科学の法則です。今までは、経験で漠然とやってきたことを科学的に考えなければならない。目が開かれる思いでした。突き詰めていくとお菓子作りは「科学」なんです。
吉野
日本の場合は、素材そのものをいかに美味しくできるかに対し、フランスでは、素材と素材との組み合わせで美味しいものを作り出していくという事ですね。果物なども日本とヨーロッパでは、違うと聞くことがあるのですが。
堀江氏
日本の果物の完成された美味しさは、世界一だと思います。果物そのものをいかに美味しくするかを品種改良して作り上げるんですから。もちろんヨーロッパでもそのまま食べても美味しい果物はあるのですが、お菓子の材料として使う場合、香りが強かったり、極端にすっぱかったり、にがかったりする個性のある果物が多いので、それをいかに加工して、美味しいお菓子に仕上げていくかなんです。砂糖や塩や香辛料を加えたり、火を通したり、バターや生クリームと組み合わせたりして仕上げていくんです。言ってみれば、菓子職人って加工業者なんです。
吉野
なるほど、よく分りました。それにしても東京には、色んな考え方の洋菓子が多いですね。プリン専門店やシュークリームだけの店もあったりします。
堀江氏
洋菓子に限らず、フレンチやイタリアンの店も同様ですね。フレンチレストランのブームがあったときには、フランス風のビストロが都内に多くできましたし、イタリアンの場合は、パスタやピッツアの専門店も数多くできました。洋菓子は、ファッション性の高い要素があるので、目新しいものが出てくると、すぐにブームになって周りも、それに流されていきます。もの作りのルールを分っていないと、奇をてらったりするものがどんどん出てきて、つい振り回されてしまいます。私も、ある意味では流行を取り入れることも必要な要素だし、お客様のご要望には、できるだけ沿っていきたいと思っていますが、お菓子作りに関しては、こうあり続けますと言う確固たる芯ははずさずに、フランスで学んだ原則的な姿勢はしっかり持っていたいですね。
吉野
堀江さんは、1995年にフランスでも権威のある「シャルルプルースト・コンクール」で優勝されましたね。
堀江氏
ちょうど、パティスリーパジャールにいた頃で、パジャール氏からシャルルプルースト・コンクールの極意を教えてもらったんです。彼によると、物事には、根があり、幹があり、花があるように、作品の中にも序論、本論、結論を作らなければならないとか、飴細工はポイントに使うから良さが引き立つとか・・・色んなアドバイスをもらいました。
吉野
それが、「ラ・ヴィ・バッカス」ですね。
堀江氏
はい。フランスでのお菓子作りを集大成した私の原点のお菓子です。
吉野
フランスから帰られてからは、どこに行かれたんですか?
堀江氏
再び銀座の和光にお声をかけていただきました。当時和光のシェフは武江さんでしたが、色々ご迷惑をかけました。
吉野
どんな事ですか?
堀江氏
フランスでは、テレビもなかったし、本を読むか散歩ぐらいだったので、常にお菓子の事しか頭にありませんでした。ですから、日本に帰ったら「あれもしたい。これもしたい」と熱く燃えていたんです。帰国後は、そういう熱意だけで仕事をしていたので、周囲との摩擦がありました。今から思えば生意気だったんですね。
吉野
その後、独立ですか?
堀江氏
はい。武江さんの次に和光でシェフを務めてから2001年に「ラ・ヴィ・ドゥース」をオープンしました。

吉野
今の場所はすぐに見つかったんですか?
堀江氏
地元の江ノ島や逗子、葉山あたりで捜していたんですが、これはという物件がなく、千葉や埼玉にも行きました。
その頃、アドバイスをしていただいた方から「あなたのお菓子やお菓子作りの考え方を見ると、都心でやったほうがいい」という事を言われまして、都内で捜している時に、知り合いから現在の愛住町の物件を教えてもらったんです。
バブルもはじけて家賃も手ごろだったし、車も止めやすかったんです。
都心に出すにはチャンスだと思って決めました。
吉野
店名の由来は?
堀江氏
お店のコンセプトが、「楽しい日常生活に、美味しいケーキを」なんです。
自分の名前を入れようかとか、メゾン何とかにしようかとか色々考えたんですが、シャガールの展覧会を観る機会があり、そこに「ラ・ヴィ・ドゥース(甘い生活)」という作品があったんです。
少し読みにくいけど、店のコンセプトにぴったりだと思って、この名前にしたんです。

それと店のカラーをオレンジ色にしました。店の名前は、出てこないけど「オレンジ色のケーキ屋さん」でいけるかなと。
フジカラーは緑だし、コダックは黄色ですから、色でお店を認知していただけると思ったんです。
当時は、オレンジ色を使った洋菓子店は見た事なかったですから。
吉野
若いパティシエ志望の方に、何かアドバイスはありますか?
堀江氏
最近製菓学校が多くなってきたんですが、「とりあえず製菓学校でも行ってみよう」では、洋菓子店の現場に入った場合は、力仕事が多く、キツイ事もあるので途中で挫折する場合が多いんです。
だから何となく「パティシエになろうかな」ではなく、「パティシエになるんだ!」「自分の店を出すんだ!」という夢が大切だと思います。夢が原動力になりますから。
吉野
なるほど。夢を持ち続けることですね。
堀江氏
はい。それと、物事を意識して行動するという事が大切です。
若いスタッフに聞くんですが、「昼何を食べた?」と。「えぇと…なんだっけ」では、駄目です。
今お米をかんでいる。今手を洗っている。今、何をしているかを意識しながら生活することが大事です。
何の為に自分が今それをしているのかという意識をハッキリ持つ事で、夢や目標を達成するためにどうゆう行動をしなければならないかと考えるようになってきます。
自分の行動を意識するという些細な事も5年10年経つと、大きな差となってきます。

それと私は、大切な事を自覚してもらうようにしています。
美味しいケーキを作るのも、店内を整理整頓し清潔に保つのも、気持ちのよい挨拶やサービスでおもてなしするのも、全て「お客様のため」だと自覚することで、自分なりに考える習慣がつきます。
それで自発的に動くことができるんです。
吉野
今日は、貴重なお話をありがとうございました。
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