吉野
本日は、よろしくお願いいたします。
まず始めに生年月日とご出身地を教えて下さい。
山本氏
1962年10月26日生まれで、東京は赤羽ですね、浮間って所で生まれました。そこで中学校3年までいました。
吉野
小学校の頃に好きな教科や学科とか何かありましたか?
山本氏
どちらかと言えばイタズラっ子だったので、遊んでばかりいた子でしたね。
プラモデルが好きで、釣りやローラースケートやアイススケートやったり。趣味は多彩だったですね、それと小学校の頃からずっと剣道をやっていました。
吉野
パティシエを目指したきっかけかはどういうものだったんでしょうか?
山本氏
実は父親が会津若松出身で、東京に身ひとつで出て来まして、何か技術を身に付けたいという事で、当時の銀座にあった洋菓子店「コロンバン」に就職したんですよ。
何年か修業した後、父は、「森永」の研究所に技術者として再就職して、10年近くサラリーマンとして勤めていたんです。
その後、父は、ケーキ屋を始たんです。
昭和50年頃、当時私は小学校3年生でした。
吉野
お父様も菓子職人ですね?
山本氏
はい、店が繁盛して7年間で相当売ったんですよ。そこで自分の土地と店が欲しいということで30年以上前ですが、土地を100坪買いまして、商店街じゃなくてロードサイドというものに着目して駐車のできる店を作ったんです。
それからも、ますます忙しくなってきて、私が、中学生の頃にはカスター炊きから窯からナッペまで全部やっていました。
吉野
跡継ぎみたいなものですよね。
山本氏
父は、田舎の人なので、長男はとにかく継ぐべきという考え方がものすごく強かったですね。
だから農業高校に行かされたんですよ。
授業では「洋菓子」も1年間あるんです。
「パン」それから「味噌」「醤油」「ワイン」とか「ハム」「チーズ」「牛乳」あと「微生物学」ですね、結局私たちの商売って農畜産物加工から来ているわけですよ。
父の店にいた職人さんがそこの学校出身の方でしたし、うちの店にも、その学校の先生がよく出入りしていたんです。
でも私は行きたくなかったんですよ。
小学校の頃から中学も、ずっと剣道をやっていた関係で「消防官」や「警察官」に、強く憧れていました。
だから、授業にやる気がないので、高校には寝に行くか、遊びに行くかみたいな感じでしたね。
吉野
というと自分でパティシエを志したわけではないんですね?
山本氏
ええ、授業終わって帰って来ると、夜遅くまで仕事の手伝いをさせられるわけですよ、土日も。だから帰るのが嫌でしたね。
だから高校3年間フルで剣道、空手、合気道の道場に毎日通ってました。
学校のクラブで稽古してそのまま道場に行って10時過ぎまで稽古して、結局帰ってくるのが11時頃なんですよ、終電で帰ってくる3年間でしたね。
合気道の全日本大会にも一般の部で2回出ていますし、2回目は準優勝してるんですよ。
本当は、大学に行って警視庁に入るつもりでいたんです。
でもやっぱり実家の菓子屋を継がないといけないという気持ちと自分の夢というものが、まったく相反する事だったので悶々としていたんです。
吉野
結局は菓子職人を選んだんですね。
山本氏
人生を大きく左右した一言だったんですけど、道場には自衛隊や消防官、警察官、学校の先生など色んな方がいらっしゃったんですよ。その方々に相談しましたら「仕事は何をやっても一緒だよ。
この仕事だから、あの仕事だからって事はないよ」と言われまして、高校卒業する時に菓子業界に入って、やっていこうという気持ちになって、18歳から菓子職人人生がスタートしたんです。
吉野
最初は、どこに入られたんですか?
山本氏
日比谷のモーツアルトって大きい会社だったんですけど、最初、ビックリしちゃったんですよ。
私は菓子屋の息子である程度自信はありましたが、まわりが製菓学校を出た子ばっかりなんですよ、それで専門用語を使うので何を言っているのか分からなくて、逆に私は、反骨心の強い方なので、夜間の製菓学校に行っちゃったんですよ。
それが今の東京都菓子学園という所で、職業訓練校です。
親を頼るのも嫌で、全部自分でお金も貯めて行きました。
だから兄弟の中で一番お金のかかっていない男って言われているんですけど、弟たちは高校も大学も全部、親のお金で私立に行ってますので。夜学では、相当菓子の勉強をしました。
吉野
モーツアルトさんには何年間いたんですか?
山本氏
そのモーツアルトがクッキーのマシンを入れ始めたんですよ、機械化を始めたんですね大きいから。
それが嫌で「手に職つけに来たのに機械いじりに来たんじゃない」って事で、退職したんですよ2年くらいですね。
次に行ったのが千葉の「江ざわ」って店に行ったんですよ、その店は当時の日本の最先端の店でした。
お菓子作りの実験店みたいな感じでした。
私そこに入った時にこれを実家に持って帰ってやる仕事だと、これからの仕事だと思いで朝は6時から夜は12時頃まで毎日働きました。
「先端」というものを身につけようと思って、2年間いたんですがその会社が設備投資しすぎちゃって、倒産しちゃったんです。
吉野
「先端」がお客様に受け入れられなかったんですか?
山本氏
そうだと思います。
私は、菓子職人として4年経験していたんですが、今の若い人たちと同じように「先端」こそ命という思いがありましたね。
やっぱり本に出てくる人たちテレビに出てくる人たちが素晴らしく偉いんだと、思っていました。
でも父親が私の首根っこをつかまえて、「東京カド」という店に連れていかれたんです。
店に入ると、古いお菓子がいっぱい置いてあるんですよ。
父親と社長と工場長と4人で色々お話をしましたが、帰り際に私が父親に言ったんですよ「あんなタルトとか、昔のバタークリームのお菓子とか俺やる気ないから」と。
そしたら父親が「入る事は決まっているから行け」と言われまして。
吉野
おお、強いお父さんですね。
山本氏
父は、私の本質を見抜いていたんでしょうね。
私も1週間で辞めちゃおうという気持ちでいたんですよ。
ただ入ってその日に私ハッキリ言われました、上司から。「4年間何をやっていたの?」って。
要は「技術」が出来ていなかったんです。仕事の基礎が。
吉野
基礎的な事ができなかったんですね。
山本氏
はい、とにかく基礎をしっかりやっているお店だったんですよ。
職人の集団で、もの作りの根っこの考え方が全然違ったんですよ。
先輩たちが何かひとつ仕事をしても、緻密さと正確さとスピードと、仕事のキレと、前後の回りが綺麗になっていたり、仕事の基本というものがしっかり出来ていて、私は今まで何をやっていたのと言われて、確かに負けを認めざるを得なかったんですよね。
今までは薄っぺらな配合や先端のものだけを求めていて、自分の腕をつけていなかったんですよ。
ですからゼロから始めてくれと言われて、給料を4万にされたんですよ。
前の店では10万くらいもらっていたんです。
それから喫茶の掃除からです。半年間は毎日掃除ばっかりです。その半年間自分の負けを認めざるを得ななかったですね。この技術者たちに表で会って横っちょ歩くような事はしたくなかったんですよ。やっぱり道の真ん中を歩きたかったですしね。ようやく本物の店に来たと思ったんですよ。私、結局その会社に10年いましたから。
吉野
10年間って長いほうでよね。
山本氏
10年間同じ仕事しかしていないです。
新しい技術だ何だというのをやらずに、とにかく「生地」とか「窯」「仕込み」をとにかく10年分の深さを散々やってきたので、1年2年では見えない事ってあると思うんですよ。それも単調にだらだらやったわけでなく、日々、研ぎすました感覚で。
やっぱり10年間やったらやった分の深さってものがあるんですよ。
ですから遠目で窯をパッと見て、今焼け具合がどうなっていて生地状態がどうなっているかハッキリ分かります。
チョコレートテンパリング取っているのを見てこの温度が何度くらいで今ちゃんと出来ているのか出来ていないのか、そのことまで見えるようになっちゃったんですよ。
やっぱりそういう人間たちが、例えば配合を見ただけでケーキ屋さんのケーキをパッと見ただけで、このムースがどうなっててどういう味でどんなバランスかってハッキリ分っちゃうんですよ。
吉野
基本的な事を徹底してやったんですね。でも逆に良かったんでしょうね。
山本氏
菓子職人の方々も熟練してくると神経のもって行き場所が表面じゃなくて深い所をパッと読むわけですよ。
例えば空手と剣道と合気道と何段もっていますと言う人よりも空手のひとつの技だけで数10年やっている人の方が明らかに強いんですよ。
要はどれだけその深さまで技術を追求できるかという事なので、正拳だけで20年間やってきた人の一発には勝てないわけですよ。
お菓子屋さんも、広く表面的に仕事をする事じゃなくてとにかく深くです。
1個の物事を追求していくという事の眼が出来ていかないと、薄っぺらなものになっちゃうんですよね。
「東京カド」の高田社長というのは、日本のお菓子会の礎を築いた方で、重鎮中の重鎮と言われている方です。
フランスから栄誉賞も頂いているんです。
とにかく多くの技術者を輩出しているわけですよ。
私も仕事を教えてもらった事は1回だけあるんですけど1日マンツーマンでパイの折り方を教えてもらったんです。
先輩方は教えるなんていう空気じゃないんですよ。
隣の先輩がやっている仕事を一緒にこっちで別の仕事をしていると、先輩が突然ふってくるわけですよ。仕事を「これやれ」と・・・で、やれないと「何を見てたんだ?横にいて!!出来ないんだったら俺がやるからもうやらなくていい。」という空気なんですよ。
ですからもうこっちは必死になって技術を盗みました。
今振り返えると良き先輩たちに本当に良い仕事を見せて頂いて、それが今の礎を築いてくれていますね。
ですから技術の基礎ってのを重視し始めてからコンテストに入りだしたんですよ。
それまで何回やっても入らなかったんです。
もう26、7の時には10回くらいタイトル取っていました。
基礎重視の考え方を持ったら仕事も楽しくなって来ましたね。
ただ「カド」にも7年位現場にいまして、そのころ会社の方に申し出たんですよ営業の仕事をしたいと。
吉野
営業?
山本氏
やっぱり売る事も技術じゃないですか。
それまで父親も一切店を出る事もない職人さんでしたし、私も「店なんてのは女子高生が前掛けして出てるだけでしょう」という程度だったんですよ。ただ家に帰って、どうしたら売り上げ伸ばせるかという事を考えると、営業も必要じゃないかと考えて、営業をやらせて下さいとお話したんですよ。そしたら社長が「お前のために営業ポストを設けよう」という事で、1店舗任されて、あと他のデパート関係の統括をやらされたんです。
催事とかそういう所に行く様なポストを作ってくれたんですよ、私のために。基本的に社長は反対しましたけど。
その時に、結果的に3年間で売り上げを170%も伸ばしたんですよ。
吉野
凄いですね。
山本氏
3年間ネクタイをしめて背広で、池袋三越とか日本橋三越の本店とか、高島屋、伊勢丹とか、帝国ホテルの催事とかも結構行きまして、露店みたいに小さなブースを開いて売るわけです。
その時感じたのが、これは売る事も深いなぁと思って、やっぱり売る事もしっかり出来てプロだと思いました。
社長は「良い物を作っていれば売れるんだと、そんな営業なんか必要ない」と言ったんですが、私がそれだけ実績を上げちゃったんでやっぱり最終的には認めざるを得なかったみたいですね。
それまで工場の現場一辺倒で来ていたので世間知らずだったんですよ、でもその時にある意味色んな世界を見させてもらったんです。クレーム処理も私全部やっていたので、ローソク1本入っていなかったので1時間かけて謝りに行ったんです。「来て謝れ」と言うので。そしたらお客様に言われたんです「お宅はローソク1本で呼びつけたと思っているかもしれないけど、私たちにとっては一生に一回の記念日なんですよ」と、「それを台無しにしてくれた」と、「よくよく考えてくれ」と。そんな経験を繰り返すうちに、良い物を作って売っているだけではいけないのだと思いました。
やっぱり人に対して時間なり、夢なりを売っている業界なんだという事を、営業を通じて3年間で勉強させられたので、良い経験にはなったと思います。その後、30の時に実家に帰ってきて、実家を盛り上げようと思って父の店に入りました。
吉野
菓子作りの基礎や営業も学ばれて、どうでしたかお店の運営は?
山本氏
自分の思うようにできませんでしたね。
父が一代で身を起こした店でもありましたし、結構しっかりやっていた店だったので、どうにかこれを盛り上げようという一念で7年間実家にいたんです。
父親のスタイルというのがこの土地で30数年お客様の評価を得ていたので、表から持ってきた仕事をやったりもしませんでしたし、地元密着型の父親のスタイルという事を継承していましたが、やっぱり時代と共にお店にしても屋号にしても、旬の時代ってあるのかもしれないですよね。旬というか、時代に少しづつズレが生じているのを感じれました。ですから二代目やって苦しんできたので、勤めに出ようと思ったんですよ。
吉野
なかなか大変な状況だったんですね。
山本氏
そうですね。やはり、この店は自分の自由にはできない父の店だという気持ちでしたね。
それと、父が若い頃に苦労した汗の結晶の店だったと思います。
吉野
その後は、どうされたんですか?
山本氏
当時ホテル関係のシェフの話もありましたし、製菓学校の話もあったし、ホテルにしようか学校の先生にしようかすごく迷ったんですよ。そんな時に、「ププリエ」の大橋さんという方に相談に行きましたら、親身になって相談にのってくれまして「親父さんに言ってやるから、お前独立しろ」と言われました。
そこで父親とも話を重ねて、家を出て独立しようと決心したんです。
でも私お金も何もなかったので、やっていく自信もなかったですが、父親からどうにかゆるしを得まして。
その時に父親から与えられた条件が「1千万貸すから1千万の範囲で全部やれ」と言われたんです。
吉野
その金額では厳しいですよね。
山本氏
1千万というのはケーキ屋さんを開くには相当小額で、保証金と改装工事だけで700万くらい飛んじゃったんですよ。
残り300万でマズイと思ったんですけど、その時に神風が吹いたんですよね、それは今まで修業してきた時の先輩たちがサポートしてくれたんですよ。
それは物であり、人であり、気持ちでありって所でサポートして頂いて、窯とかミキサーとか冷蔵庫とか全部含めて30万位でもらってきたんですよ。業者さんにも本当に便宜をはかってもらいましたね。
1千万以内でのスタートをしたんですよ。
今1千万でやれって言っても無理だと思うんですよ。
吉野
お店の名前の由来というのは?
山本氏
工場に「クレームドゥーブル」というのが置いてあって、「ダブルクリーム」なんですよね、でこれは語呂がいいなあと思ったんです。「ドゥーブルシェフ」でどうかなと思ったんです。「ふたりのシェフ云々」というのは後から取ってつけたものですが、ただ語呂が良かっただけなのでこの名前にしました。
ただみんなが意識をぶつけ合って、お互いの個性をぶつけ合う店という意味で良かったんだと思います。
吉野
店のオープンは何年前ですか?
山本氏
8年前ですから2001年ですね。
まったくゼロからのスタートでして、2人雇って大丈夫かな、どうやって給料払っていこうってかな・・・?って本当にそういう気持ちですよ。
もらってきた中古のケースと中古の窯やミキサーを一生懸命に洗ってペンキで塗って、「工事屋さんと半分一緒に工事しますから、安くして下さいと」頼んだんです。
自分で半分やりますからと言って工事の価格も落としてもらいました。
中のキッチンとか壁も全部自分でペンキ塗ったんです。
吉野
まさに手作りですね。
山本氏
そうです。
嬉しいことに開店の時に、大橋さんがうちの店にコケラ落としで仕事しに来てくれたんですよ。
で、「なぜ来て頂けたんですか?」って聞いたら「おまえに余計な事言っちゃって失敗したらどうしようと不安でしょうがなかった。
人ん家の二代目に家出ろなんて余計な事言っちゃったかな」という気持ちでいたと話していただきました。
だから心配して、店に来て仕事をしてくれたんでしょうね。
吉野
大橋さんは、2007年厚生労働省から卓越した技能者として「現代の名工」に選ばれた方ですよね。
山本氏
はい、16区の三嶋社長と同じ時期に受賞されました。埼玉県洋菓子協会の会長をされています。
吉野
どうでした。スタートは?
山本氏
結局小額でスタートしたので負担が少なかったんですよ。
良い物作りにお金をかけられた状況があったんですよ。ですので材料は惜しまずに良い物を使って来ましたし、結局「東京カド」で10年間やってきましたので、材料の奥深くまで見えるんですよね。また、営業もしていましたので、お客様の目線で物を作る事が出来ました。
吉野
なるほど、それがね本当に財産ですよね。
山本氏
ええ、財産ですよ。
高田社長や大橋さんなどの方々にしっかりと教えて頂いた事が大きな財産ですし、それを若い人たちに継承して行く事が私の仕事だと思っています。
私はいまだに給料4万の生活をしているつもりでいます。
「東京カド」っていうお店で、4万円で4年間やらされるんですよ。
月1万のアパートで10年間住んでたんですけど、4万の給料が4年経つと14万円にしてくれるんです。
その時に高田社長が良い事言ってくれたんですよ。「今まで4万円の生活をしてきたんだから、プラス10万円の10万円は貯金しなさい」と、やっぱり人って浅はかなもので、14万円もらったら14万円の生活をしちゃうんですよ。
私らもお金が入ってきたら、じゃあ良い車乗りましょう、いいテレビが欲しい、じゃあ家買いましょう、どんどんどんどん人間の欲求って底がないんです。
ですから、良い感覚をしつけられたなと思うんです。目線を崩すなよと言われたんですよね。
ですから私はいまだにある意味、目線は4万円のつもりです。
利益は、お客様にキチッと還元するんです。
もっとも安売りする事じゃなくて良い材料をどんどんどんどん入れてきました。
特にアーモンドなんかはね自分の所で挽いてやっているんです。
アーモンドプードルなんてのはほぼ99.9%皆さん業者さんから取っているんですよ。
私は2時間かけてアーモンド挽いているんです。
ですからやっぱりその物作りの価値というか深いという所で、やっぱりそれが美味しいから良い素材にお金をかけてやって行きたいと思ったんです。
このアーモンドを加工する機械1千万ですよ。
私が店開いたのと一緒くらいですよ。
吉野
なるほど。自分のためではなく、お客様の利益の為ですね。
今後、お店はどういう展開にしていくんですか?
山本氏
現在、うちのスタッフが30人規模近くなっていて、これ以上商売を拡大すると、私が、20代の時に機械を入れたためにケンカして辞めたその会社と同じことを始めちゃうんですよね。
これから先、いかに合理化して、どう効率よく会社をなりたたせていくかと考えがちなんですよ。中小企業になっちゃうんです。
でも私は、人作りと物作りの部分を核に置いた店作りというのを、息長くやっていく事が大切だと考えているんです。
ですから、地域のお客様の為のお菓子屋さんとしてのポジションを今まで通りに守っていきたいんです。
お客様が「ショートケーキ1個作ってくれ」と言われたら「ちょっと待ってください」って作るんですよ。
1個作るのに10分かかりますから。これ1個作るのに10カットしてそこから1個取るんですから。
効率悪いし、時間も無駄ですよね。だから大手の考えではないですし、効率を考えたらできません。でもやってます。
だから、今回のクリスマス(2008年)で経営にブレーキ踏んだんです。注文生産しか作りませんでした。
2007年のクリスマスにお客様から「いつも食べているケーキと違う」と苦情が来ちゃたんです。
それまでは、クリスマスケーキの需要が増えて1日じゃ応じきれずに、1日前に作り置きをして、冷蔵庫にためといて出していたんですよ。
それを、いつもうちの店で作り立てのデコレーションケーキを食べているお客様から苦情が入ったんです。
ですからクリスマスケーキも作り立てのデコレーションケーキを提供したいという菓子職人としての部分を優先させたんです。
菓子職人の世界というのはですね、どうしても譲れない誇りって心の中にありますよ。
ですから、本筋をキチッと見極めることができる誇りのある職人作りも大事なうちのテーマです。
吉野
これから菓子職人になりたいという人達にとって大事な事やアドバイスなど何かありますか?
山本氏
パティシエの華やかな表面だけで捕らえないでもらいたいと思います。
そういう部分は、夢として大切な部分です。
でも、そういう結果に行き着くまでには大変な苦労があるということを自覚して欲しいのです。洋菓子店で働いている子たちはケーキが好きで入って来たんですよ。
親から400万も500万もかけて製菓学校出してもらってお店に「夢」を持ってやってくる子もいるんですよ。
でも、すぐにリタイヤしてしまう子たちも多いのも事実です。実際の仕事は、体力も使いますし、慣れないから辛いことばかりです。でも、他の職業に就いても同じだと思います。
ここでダメだったら他の所に行ってもダメです。
結局どこ行ってもダメなんです。
壁ってのはどこの職業にもあります。それは自分の壁。自分自身なんですよ。
コンテストに入っている連中が、店をやると上手く行くんですよ。
それは何故かと言うと、コンテストってテクニック論じゃないんです、テクニックが上手いから入賞をするわけじゃないんです、結局自分の壁を越えているんですよ、越えないと入賞なんて出来ませんから妥協だらけの製品なんてのは。
いかに自分に妥協しないで、眠くても朝までやりあげて、物を作っていくしかないんですよ。
結局自分のコントロールの仕方をある程度勉強しているわけですよ。だから、踏ん張って続けてもらいたいですね。
「東京カド」って所を出たOBの上の方々は100人中まだ70〜80人この業界に残っているんですよ。
最初の先端のお店にいた人間、残っているの1人2人ですよ。
表面だけ探ってきた連中は、どっかで足元割れちゃうんですよ。
ですから私は父親があの時何が言いたかったのか、今になって分かるんですよ。なんで「東京カド」に連れていったのか。
やっぱり父親は「コロンバン」で、職人としての覚悟をしっかりと勉強して来ているんですよね。
吉野
まさに、そうですよね。夢を諦めるなということですよね。
山本氏
それと、人はやっぱり気持ちで動いているものです。だから気持ちをキチッと大切にしていかないといけないいんです。
いやいややった仕事ってのはお客様にも分かりますしね。
支店を作ったときにスタッフと一緒に店を作り上げたんですよ。その姿勢に工事屋さんがものすごく熱くなったんですよ。
私等が一緒に泥運んだりペンキ塗ったりやったんですよ、で若い子たちの空気をその建築屋さんの職人さんたちにも感じて頂いたんです。
そしたら店という形になって現れたんです。
ですから最終的には、気持ちが物を作っているんですよ。
でも、私は、「気持を込めて」って言い方しません。
私は、「自分が誕生日に買いに来たと思って」と言います。それが一番なんですよ。
「自分のお母さんの誕生日の時に作っていると考えて」とも言います。
いやいや変な物作らないでしょう?と気持こもっているでしょう?と言ってます。
吉野
本日は、長い時間ありがとうございました。