吉野
生年月日とご出身地を教えてください。
島田氏
生まれは、埼玉県鴻巣市で1963年8月18日です。
吉野
小学校の頃の島田オーナーはどういうお子さんでしたか?
島田氏
とにかく外に出て身体を動かす事が好きな子供でした。
毎日学校から帰ると友達と近くの川で魚とりや釣りをして遊んでいました。
吉野
得意な科目はありましたか?
島田氏
体育は得意で大好きでしたね。科目では、算数と社会は好きでした。でも国語が苦手でしたね。
吉野
子供の頃に熱中されていた事はありますか?
島田氏
熱中したと言えば料理番組を観るのが好きでした。
「世界の料理ショー」や「3分間クッキング」とか観ていて真似をして料理を作っていました。
吉野
一番最初に作った料理は何でしたか?
島田氏
幼稚園のころかなぁ…親が居ないときに卵焼きを作った記憶があります。
吉野
ご実家は何をされていたんですか?
島田氏
農業です。少し出荷もしていました。でも父は普通の会社員でしたので専業ではなく兼業農家です。米や野菜を作っていましたが自分のところで食べる分がほとんどでした。柿とかも作っていて柿採りについていったのを覚えています。
吉野
菓子職人を志したキッカケはどんな事でしたか?
島田氏
勉強が嫌いでとにかく机に座っているのがイヤだったんです。
性格的に机に向かって座っておとなしく勉強するというタイプではなかったので、普通に学校を卒業して就職するという方向じゃなくて手に職を付けて何かやりたいと思っていました。
ただ自分としてはパン屋か料理屋か美容関係に進みたいなと漠然と考えていたんですが、なんとなく近くの洋菓子店に勤めたんです。それが始まりですね。
吉野
どうしても菓子職人になりたかったんではないのですね。
島田氏
そうです。小さい頃から料理が好きだったんで、ケーキを作るのも面白いなぁと、深い考えもなく家から通える洋菓子店に入ったという感じでした。
吉野
その洋菓子店ではどんなお菓子を作られていたんですか?
島田氏
ショートケーキやシュークリームとか作っている街のケーキ屋でした。
こっちも遊び盛りだったんで当時は真剣に菓子職人になるんだという気持はあまりなかったんです。
私が入った頃には先輩の職人が3人いたんですが、そんなに厳しくもなかったんですが、先輩から言われる事をきちんとやっていました。
仕事自体は面白かったですね。
吉野
そちらには何年間働かれたんですか?
島田氏
4年間です。
吉野
その後はどうされたんですか?
島田氏
「ププリエ」という洋菓子店に入りました。
吉野
埼玉県の東松山にある大橋オーナーのお店ですね。
島田氏
そうです。当時から繁盛店であると聞いていた凄い店です。
吉野
どういったいきさつで入られたんですか?
島田氏
最初にいた店の初代のチーフが「ププリエ」でシェフをされていた方だったんです。ただ私がその店に入る頃には辞められていたんですが、たまたまその方の知り合いの人がまだその店で働いておられたんです。
その人に「どこか他の洋菓子店に行きたい」と相談した時に「有名なフランス菓子のププリエという店があるんだけど」と教えてもらったんです。
一通りの仕事ができるようになっていたのでフランス菓子も学びたいなという気持で紹介してもらって、「ププリエ」に置いていただけるようになったんです。
吉野
ププリエさんはどうでした。
島田氏
お菓子作りの基本ベースはそんなに違いはなかったのですが戸惑いはありました。
前の店では比較的のんびりと仕事をやっていたんですが、ププリエの職人は、お菓子作りへの想いや姿勢が真剣そのもので違ってました。朝8時から夜は10時過ぎくらいまで無我夢中で働きました。洋菓子店がこんなに忙しいとは思っていなかったですね。
同じ洋菓子店なのに前の職場とはこんなに違うのかと驚きました。
吉野
厳しかったですか?
島田氏
入る前から厳しい店だと聞きていたんで覚悟してましたし毎日一生懸命だったんで、さほど厳しいとは思いませんでした。
ププリエは来客数も多く、それだけお菓子を多く作らないといけない訳で、当然仕事のスピードも早く菓子工場は戦場でしたね。
当時菓子職人が5人いたと思うのですが、先輩のお菓子作りの動きがとにかく無駄がなく早いんです。
毎日その早い動きのリズムについていくのが大変でした。その働くリズムに乗れずにもたもたしていると怒られました。
そういう意味では職人の真剣さと厳しさが凄くあったと思います。
それに、お客様の口に入るものを作っているのですから衛生面も含め全ての面に於いて厳しくないとプロとは言えませんからね。
吉野
ある意味ププリエさんで菓子職人としての自覚が出てきたんですね。
島田氏
そうですね。厳しい先輩方でしたが、働くにつれてそれが当たり前だと思えるようになりました。
性格が負けず嫌いだったんで逆に自分の闘争本能がメラメラと燃え上がってきました。
吉野
お菓子作り以外に何か役にたったことはありますか?
島田氏
自分が店を出す時の接客には大変勉強になりました。
ププリエに入った頃は、お菓子作りが終わった夕方から閉店まで店に出てお客様の応対をしていました。
菓子作りだけをやっていたんでは分からなかった事を知ることができて勉強になりました。
吉野
例えば、どんな事ですか?
島田氏
お菓子を作って販売スタッフに渡すだけの仕事ならお客様の反応が分からないんです。
ショーケースのお菓子を見ているお客様の目線や仕草を観察する事で、お客様の気持ちというものが分かるようになりました。
吉野
修業時代はお菓子つくりだけではなくお客様と接する時間は必要ということですね?
島田氏
絶対必要だと思います。特に将来自分で洋菓子店を開こうと思っていたらなおさら大事ですね。
吉野
ププリエさんには何年間お勤めになったんですか?
島田氏
12年間です。
吉野
それだけ長い期間お勤めだったなら後輩がたくさん入ってきたでしょうけど、島田オーナーは後輩に対して厳しかったですか?
島田氏
そうですね。それなりに厳しかったと思いますが、私の場合はお菓子作りは楽しくやるってのがモットーですから、後輩にもできるだけ楽しんでお菓子作りをやってもらいたいと心がけていました。
吉野
他の店に行こうとは思わなかったんですか?
島田氏
そうですね。入って8年目頃にどこか他の店に行こうと思った時期もあったんですが、当時はすでに結婚もしてましたんで、変な所に行くのも不安だったんで移る事はなかったです。
それに、ププリエは基本ベースはフランス菓子なんですが、時代の流れを敏感に感じて良いものはすぐに吸収して商品に取り入れていくという大橋オーナーの考え方があったのでお菓子自体もどんどん変化していくんです。
それが、とても勉強になったんで、もう少しお世話になろうと思いながら・・・・12年たちました。
吉野
ご自分の店をオープンされるまでププリエさんにお勤めになったんですね。
島田氏
はい。12年もやってきたので自分の店を出してもやれる自信がありましたね。
吉野
自分の店を持つということは一生菓子職人として生きていくという覚悟ができたということですね。
島田氏
そうです。自分は高校まではどうしょうもない子供でしたがププリエに入って菓子職人の素晴らしさに目覚めたんです。
それに、そんなに器用な人間ではないので菓子職人以外の道はもう考えられなかったんです。
そして自分の性格を考えると、いつまでも人に使われるのが嫌だったんでいつかは自分の腕一本で自分の店を持ちたいと思うようになりましたね。
吉野
ご自分の店を出したのは何年ですか?
島田氏
1995年10月にオープンしました。ププリエで学んだお菓子と自分のオリジナルのお菓子を加えて商品のラインナップを決めました。
吉野
上尾に店を出されたのはキッカケがあったんですか?
島田氏
鴻巣沿線で探していたんです。上尾を見て回っていた時に商圏も良さそうな感じでしたし、丁度良い物件があったんです。
現在の店の近くに最初の店をオープンしました。
吉野
店名の「アンジェ」というのは何か意味があるのですか?
島田氏
フランスのアンジェという地名です。地図や本で見て街の雰囲気も良かったし、覚えやすそうだなぁと思って決めました。
吉野
オープンの滑り出しはどうでした?
島田氏
オープンは売れましたね。自分と妻を含め6人でスタートしました。製造は自分ひとりでしたので大変でした。
ただ、その後は、予想してたよりも売れなかったですね。
ププリエは繁盛店だったんで、単純にそれを基準に売上を予想していたし、今までププリエでやってきて自信はあったんですが・・・・店構えや雰囲気などが違うとやはり売上も違ってくるのは当たり前だなと思いました。
吉野
その後、どういう店舗展開をされたんですか?
島田氏
色んな洋菓子店を見て回り参考になる部分は取り入れるようにしていきました。商品のアイテムも増やしていきました。
そうすると多くのお客様にも来ていただけるようになりました。
すると今度は、製造スタッフも必要になってくるし、場所も手狭になってきたんです。
そこでもっと広い店に移らないといけないなと思って、2001年に現在の場所に移転する事にしました。
吉野
高校を中退してご心配をかけたご両親は安心されているでしょうね。
島田氏
ろくなヤツじゃなかったんで、やっと一国一城の主になって口には出しませんが安心していると思いますよ。自分には、はやり菓子職人が一番合っています。
高校の時にずるずる勉強をしていたら中途半端な人生になっていたと思います。
ププリエで働いた経験が自分を変えてくれましたね。
ププリエって大橋オーナーも含めてプロの凄い職人集団だったんで、自分も真剣に菓子職人になるんだと決める事ができたんだと思います。
菓子職人は、毎日同じ事の繰り返しの根気がいる地味な仕事です。
自分のお菓子作りはフランス菓子に基本を置いていますんで、素材の味を主張できるお菓子作りを目指しています。でも、時代の流れを感じ取ってお菓子も変えていかないといけませんが、それはそれでとっても面白いですね。
ここは日本ですから、あくまで日本人の舌に合わせる事が大切だと考えています。
吉野
菓子職人にとって大切な事は何ですか?
島田氏
まずは、食の安全です。お客様の口に直接入るものですから素材を含めて安心な安全なものを使うようにしています。
それに昔と違ってお客様にも新しい情報がどんどん入ってくる時代なので、流行に敏感になっています。
東京都内の洋菓子店と比較される場合がるので、それも意識して都内と同じようなお菓子が安く買えるという情報を発信していく事もこれからの菓子職人には大切なことだと思っています。
お菓子作りだけでいいという時代ではないと思っています。
吉野
現在では、パティシエになりたいという若い方が多く、製菓学校も増えているんですが、パティシエ志望の方々に何かアドバイスがあればお願いします。
島田氏
学校と現場は違うという事ですね。
パティシエというと華やかなイメージを持っている若い人が多いんですが、見た目よりもハードな仕事ですし、スピードも要求されます。さっきも言いましたが現場は地味な根気のいる仕事で、本当に大変です。
それから基本がとても大事です。
でも基本があれば自分なりの色んなアレンジができるようになりますので、修行時代は辛く大変ですが最後まで夢は持ち続けていって欲しいですね。お菓子の流行もあるので雑誌やメディアも常にチェックすることも大切ですし、講習会にも積極的に出ていったほうがいいですね。
菓子職人は一生勉強です。
吉野
今日は、貴重なお話をありがとうございました。