田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃好きだった科目や趣味とかお聞かせ下さい。
吉国氏
昭和45年3月16日生まれ、鹿児島県鹿屋市出身です。
小・中で好きな科目は図工、美術。
子供の頃から一貫して続いていた趣味が「お菓子作り」
だったんです。
小学校の頃からず〜っと好きで、お菓子を作っては配ったり、そんな学生時代でした。
田中
ではパティシエを志したのはいつくらいからですか?
吉国氏
仕事としては、就職を気にし出してからですが、小学校も中学校も卒業文集に将来の夢には「お菓子屋さん」が必ず入っていました。子供の頃の夢が仕事になったラッキーな一人だと思っています。
田中
高校を卒業されてからは?
吉国氏
高校の時点では就職はこれで!というのを決めていなかったので、自分が女性という部分も含めて食の勉強をしたいと、食物栄養科のある短大に進学しました。
仕事として「お菓子の仕事がしたい!」と決めたのは短大の時ですね。
田中
短大の頃にお菓子屋になりたいと決められたんですね。で短大を卒業されてからは?
吉国氏
東京の「エスワイル」という老舗のフランス菓子店に就職をしました。
そこで3年お世話になりました。
田中
修業時代の事なんですが、「エスワイル」さんはどうでした?
吉国氏
同期で私を入れて3人女の子が居まして、私たちが入るまでは本当に男性だけの職場だったので、何て言うか神聖な場所で、私たちが入っていいんだろうかという「ピリッ」とした空気があったんです。
でもそれが良いプレッシャーでした。
ましてや東京も初めて、修業しているという実感がありました。
ただ、今の人達には分かりにくいかもしれませんが、私の場合は「専門学校」じゃなくて「短大」じゃないですか。
私以外の2人は製菓などの「調理師専門学校」を出ていたんです。
私はそういう専門の勉強をしていないのに、修業先では同じスタートラインに立たせてもらえた時に、確かに厳しかったですけど、お菓子作りはそれまで趣味だったので、好きなことで仕事をしてお金を貰っていいんだろうかと思っていました。
田中
きついとか辞めたいとかはなかったんですか?
吉国氏
最初は計量ばかりでしたけど、計量をさせてもらえるのも「お菓子屋で働いているんだ!」とすごく嬉しくて、だから今、すぐ辞めちゃう子もいるんですが、それが逆に理解出来ないんです。就きたい仕事に就ける喜びってやっぱりありますよね?
そして逆に下積みがあるからこその喜びもあって、すぐに何でもさせてもらえないからこその実感と言うか、先輩を見ながら「私もいつかあんなに出来るようになるのかな‥‥」とワクワクしていました。
田中
その3年間は楽しかった事のほうが大きかったんですね。
吉国氏
そうですね。
ただ、同期も1年以内にみんな辞めてしまったので、仕事は大変になりましたが、それはそれで達成感がありました。
そしてたぶん「エスワイル」の特徴的な所が、私たちの頃まででしたけど新人は「まかない」を作るんです。
2年間は「まかない」を作りながらお菓子を作っていた記憶があります。
毎日3食です。
朝昼晩、売場の方の分まで食事の買出しも行って。
お菓子では修業だからあまり褒められる事はないけど、食事では喜ばれることもあり、スタッフとのコミュニケーションも取れて仕事的にも良かったです。
田中
そして3年間修業された後に、何故海外に?
吉国氏
テレビの影響ですけど、子供の頃から西洋に憧れがありました。
エスワイルで修業している頃に、アメリカで寿司ブームが起こって、テレビで金髪の人がお寿司を握っていたんです。
その時に「この人は日本のご飯とかお寿司とか実際に食べた事あるのかなぁ」と思って、私もエスワイルで洋菓子を作っているけど、実際ヨーロッパではどんなお菓子を食べたり、作ったりしているのだろう?
実際、生活の中のお菓子を知りたいと思いました。
だから、旅行じゃなくて生活をしてみたいと思ったんです。
少しずつ、お金をためて親を説得しつづけました。
最初にスイスに行ったのは、「20年くらい前にエスワイルで修業していた方が国際結婚をして、スイスに住んでいる」と社長から伺って、どうしたら海外に行けるかたずねました。
最初に「まず言葉だよ英会話できる?」って聞かれて、「まずフランス語を聞く環境にしないと覚えられないし、いくらお菓子が作れても、言葉が出来ないとこっちでは通用しないよ。 まず現地に行って言葉を勉強しながら仕事を見つける事をしないと、日本で勉強して行ってもしゃべれないんだから」と。それで納得しました。
田中
スイスではお菓子屋に?
吉国氏
私は仕事が見つかるまで4ヶ月かかりました。
語学学校で勉強しながら履歴書を持って、お菓子屋さんというお菓子屋さんに行くんですけど・・・。
アジア人だし言葉もしゃべれないので、相当断られました。
4ヶ月目でやっと「いいよ」と言ってくれたお菓子屋さんが見つかり、そこのお店には約1年ほど居たと思います。
それからレストランに1年弱居ました。
お菓子はフランス菓子よりスイスの方が地味で、スイス菓子はもっと素朴なんです。
それはそれで基本だし、良かったんですが、やっぱり最後はパリに出たいと、パリの華やかなお菓子も見たいと思って、最後1年はフランスに行きました。
田中
フランスではお菓子屋に入られたんですか?
吉国氏
お菓子屋さんとレストランでした。
何が違うかと言えば、ひとつは食べられ方が違いました。
もちろん特別な時にも使いますが、もっと日常に近いお菓子やお菓子屋さんの存在があるんです。
お店も種類があって、日本はケーキはケーキ屋さんだけど、フランスは「パンとお菓子屋」という分類と「お菓子とコンフィズリー(砂糖菓子やチョコレートやキャンディ)」ハレの日と日常の使い分けがきっちりされていました。
そして私が最も感動した事があって、フランスでは”バックパッカー”と言って若い子たちが大きなリュックを背負って、質素な旅行をするんです。
その子が私の勤めていたお菓子屋さんの前で、ミルフィーユを手づかみで食べていて、あまりお金をかけない旅行で、安くてボリュームのあるパンがあるのに何でパンを食べないんだろうと思ったんです。
でも本当に美味しそうに食べているのを見て、「あぁこの人達にはお菓子は必需品なんだ」と感じました。
癒してくれると言うか、それを見た時に感激して、こういう仕事をしたいなと思いました。
あとは素材で果物にしても何にしても、素材の味がすごく強い気がしました。
日本では果物は生食用ですけど、ヨーロッパでは火を通しても美味しいものがあり、「リンゴ」でも「いちぢく」でも酸っぱくて硬いのはお菓子に最適なんです。
しっかり原種が残っているので、いろんな素材が食べれてよかったと思います。
田中
結構内容の濃い、海外生活だったようですね。
吉国氏
そうですね。
技術がどうこうというよりは、そういう普通の生活を見れたのが勉強になりました。
陸続きなので色んな国の人と仕事をするので、日本のように「普通は」という言葉が使えなくなる。
いろんな事に対応しないといけないし、いろんな考え方があるし。
思っている事があっても言わないでいると「おまえ何も考えてないのか」とか言われたり、「言わないと分からない」とは、いつも言われていました。
田中
文化の違いはありますからね。それで、その後帰国されて?
吉国氏
3年後に帰国しまして、私としては「とりあえず」で帰国したつもりだったんです。
まだ25歳でしたから、23歳からヨーロッパに行って、一旦リセットして「何のために」をしっかり考え直すために鹿児島に帰って来ましたから。でも、地元のみんなからは東京行って海外に行って、「いつお店出すの?」と、言われて。
すぐお店を出すつもりはなかったんですが、もしどこかのお店に入っても、フランス帰りの女性と思って試されても、私そんなに腕はないのに、それも嫌だなと‥‥。
ヨーロッパでは小さい頃から修業するので、10代の子が先輩だったりして、正直、菓子職人として自信を失って帰って来ていたんで、当時はお店なんて無理だと思っていたんです。
そしたら父が「今なら協力するぞ」と言ったんですよ。
「鉄はあついうちに打て!」「やるんだったら早いほうがいい」というのが父の考え方で、私はもちろん不安でしたが、いつかお店をするのは自分との約束で、40歳になったら自信が持てるというものでもないし、それにお菓子を食べてもらえるなら、身近な方から食べてもらいたい、東京やヨーロッパで食べて感動した味を地元の方に伝えたいと思いました。
今ならプライドもないし、お客様の言葉にも謙虚に耳をかたむける事ができる気がして、始めました。
田中
いよいよお店を開店をされるわけですね、ボンヴィヴォンという名前にしたのは?
吉国氏
やると決めてからは、いろいろ考えながら準備をしてオープンしました。
お店の名前は、フランス語なんですが「ヴィヴォン」というのが「生き生きした」という意味で、「ボンヴィヴォン」となると「生き生き暮らす」とか「人生を楽しむ」とか、ヨーロッパで良く耳にした言葉だったんです。
それにそういう存在のお店になりたいと思って、楽しむ仕事にしたいと、いろいろな意味合いを込めてこの名前にしました。
オープンは1996年10月5日オープンで2008年の10月で丸12年になります。
田中
オープン当初は何人で?また、開店当初はどうでした?
吉国氏
お店は最初3人で、私が作って、幼馴染の子が販売をしてくれて、もう一人はこれからお菓子をしたいという子、3人で始めました。
でもほとんど一人で作っていました。
店を閉めてからお菓子を作れる時間で、次の日には全部なくなってしまう。
「あぁ〜そんなに買わないで」なんて思ったりもしました。
当初はもう寝る暇がないというか、仕事しながら立って寝てるような状態でした。
そしてオープン前後はエスワイル時代の先輩が手伝いに来てくれて、帰ってしまう時の心細さはたまらなかったですね。
田中
菓子職人にとって大切な事とは。
吉国氏
これは菓子職人じゃなくても大切と思っている事なんですけど、基本的には「挨拶」。
スタッフにもいつも言っているのが、「挨拶」と「元気」、体力のいる仕事なので、とにかく元気があって挨拶が出来て、あと、「好き嫌いなく食べる事」
これは私がお菓子を作る時ですが「味の記憶」を辿るんですね。
和菓子にしても料理にしても「こういう食感の」とか「こういう味の美味しい物が」とか、出汁が効いているみたいな事をお菓子でも表現できる事があるので、それを考えると、好き嫌いがある人はその分、味の幅が狭くなるからもったいないと思います。
田中
これから菓子職人になろうとしている人にアドバイスを。
吉国氏
あるとすればやっぱり、「自分を信じて進む事」じゃないですかね。
途中で止めるのが一番もったいないと思います。
続けてないと絶対に良い事はないのに、良い事が起こる前にみんな辞めてしまう。それはやっぱりもったいないと思いますね。
あとは、プロ意識をもっと持って欲しいなと思います。
私のオーナーとしての経験上ですけど、辞める子はたぶん同年代の他の仕事をしている人と比べて辞めるんだと思います。
休みがまず土日じゃないし、自分の時間がないというのを一番に言います。
でもやっぱり好きで、この仕事を選んで、人様の口に入るものをお金を頂いて出来るという事は、ものすごく貴重だと思います。
自分たちの仕事はそういったものが「誇り」で、人様の口に入るものを作っていると考えたら、もっと誇りをもっていいのにと、プロ意識をしっかり覚悟を持って望んでほしいと思います。
趣味とプロとの一線を引く事ができるかどうかが大切だと思いますね。
田中
本日はありがとうございました。