田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日とご出身地をお願いします。
また、子供の頃、熱中した事や趣味はありましたか?
濱田氏
昭和37年3月18日生まれ、出身は福岡です。
僕の時代だと、当然テレビゲームとかもないわけで
外で遊ぶ事ばっかりでしたね。
それで小学2年生の頃から、ずっとソフトや野球をやっていて学校から帰ってきたらすぐ外に飛び出していました。
中学1年の頃は野球部だったんですが、ギターを友達に習っていて、音楽にもすごく興味がありました。
だから中学校の時にバンドを組み学校での催し物とか、文化祭などで演奏したりしていました。
高校くらいになるとドラムでまた音楽をやっていましたね。
田中
では将来どのような道に進むとかはあったんですか?
濱田氏
そうですね。
うちの両親が、全然パティシエじゃないですけど、「はまや菓子店」というのを30数年やったんですよ。
その「菓子店」と言っても今の食料品、雑貨店みたいなもので、コンビニみたいなものです。
要はパンもアイスクリームも売っている。駄菓子も売っている。週刊誌や洗剤もある。いわゆる何でも屋。
それを小さい時から見ていたんで、そういう商売の血筋を引いていたんですかね。
あまり勉強も好きではなかったので、高校を卒業する時に「何でもよかった」という言い方はいけないけど、何か物を作る職業がいいと、自分には手に職を付けたほうがいいと思って、実は高校を卒業してパン屋さんで1年間働いたんですね。
そのパン屋さんに入った時に、ひとりのパティシエがいらっしゃったんです。
その方と親しくさせて頂いて、「ケーキの事やお菓子作りの話などをしていくうちに」パンも好きだけど、お菓子を作りたいと言う気持ちが膨らみまして、それで1年で退職いたしまして、それから19歳からずっとお菓子の世界ですね。
田中
ではパン屋さんに1年間いらっしゃって、それからケーキ屋さんに行かれたんですね。
濱田氏
はい、それからは個人の洋菓子店で修業をさせて頂きました。
結局、福岡の洋菓子で独立するまでに4店舗くらいは行きました。
それで、最後の所が「石村萬盛堂」の「ボンサンク」に入ったんです。
それで、どうしてもフランスのお菓子を見たくて、24歳の時に10ヶ月くらいフランスに行きました。
パリの「アラプティ・ショコラティエ」というお店です。
ショコラティエと言う割にはあまりショコラはなかったんですけどね。
田中
それから独立という事ですか?
濱田氏
そうですね。36歳の時に独立しました。
田中
では結構長い間、いろんなお店に行かれたんですね。
濱田氏
そうですね。
割と今の子からすると修業時代は長いですね。19歳からだから、17年くらいですか。
田中
では、どうでしたか、修業時代というのは?
濱田氏
うーん、やっぱり、かなり厳しかったですね。
ぼくらの頃はしょっちゅう怒られてましたし、決して僕も出来が良い方じゃなかったと思いますので、
最初の頃は結局何もできないわけですよ。
だから何も出来なくても、唯一その当時、自分が思っていたのは「何でもいいから一番になろう」と思って、
当然、経験がない分”何を一番”にしたかと言うと「誰よりも朝一番に来る」というのをずっと守り通したという時期がありました。
田中
それは、凄いことですよね。やっぱり信念がないと中々できない事ですね。
逆に楽しかった事とか。
濱田氏
それは色々ありましたね。
時々試作なんかをさせて頂いて、それがお店で商品化されて、実際に作るだけじゃなくて販売もしていましたので、その目の前で自分が作った物が売れていく、そしてそのお客様から「あの時の商品美味しかったよ」言われる事、これがやっぱり1番の嬉しい事でしたね。
田中
でもある程度、経験を長い事されたので、上の立場になり、責任も持たされる事もあったと思いますが?
濱田氏
そうですね。最後の何件目かでは、いわゆるセコンドでやったりもしましたし、下の者を管理したり、それと最後の「ボンサンク」さんでは製造と兼務で商品開発の方までさせて頂いて、その辺ではすごく勉強になりました。
田中
では接客から商品開発から全て、スタッフを使う事とか、全ての事を学んで独立されたという事ですね。
濱田氏
そうですね。長い修業時代で全ての事を学んだように思いますね。
田中
36歳の頃、お店を出そうと決められたのは何かきっかけがあったんですか?
濱田氏
もう年齢的なものもあって、本当は30歳でやりたかったんですね。
ただ、やっぱり社会的な信用とか、そういう問題で当然銀行も相手にしなかったし、実際に「ボンサンク」さんでお世話になった時に、
色々勉強しながらやっていたら、その歳になった、という感じです。
それで、たまたま36歳の時に、この物件を見つけて、もともと地元で、隣町の吉塚ですから僕の生まれは。
だから、気持ちは「出来るだけ地元でやりたい」という想いでしたのでここでオープンしました。
田中
他の物件は色々探されたんですか?
濱田氏
もちろん色々見に行ったんですけど、本当の地元、吉塚には中々合う物件がなかったんです。
それで、この辺を車でウロウロしていたら、たまたまここのビルが建っていて、「ああこれは1階は明らかにテナントだな」という事で、
ここなら良いんじゃないかと思いました。だから何も場所的なリサーチとかも全然していないんです。
なにもしないでポンと決めてしまって・・・インスピレーションですね。
田中
オープンされて2008年の今年で何年になるんですか?
濱田氏
1998年の6月がオープンですから、今年で10年ですね。
田中
オープン当初は何名から始められたんですか?また、「オペラ」を店名にしたのは?
濱田氏
最初は、パート・アルバイトばっかりで4名くらいで始めました。
オープン当時はパティシエは私だけです。
また、「オペラ」という店名にしたのはですね。
フランスに行った時に、初めて食べたお菓子が「オペラ」だったんです。
チョコレート菓子でフランスの伝統菓子です。
それを食べた時に、すごい衝撃を受けて、その時から、もし自分がお店を出すなら最初の感動したお菓子の名前を付けたいということで「オペラ」にしました。
田中
では、どうでしたかオープン当初は?
濱田氏
最初は本当にゆっくりした店だったですね。
とにかく「こんなにお客様が来ないものか」と言うくらいゆっくりしていました。
ものすごいゆっくりしたスタートで、本当にどうしようかって感じでした。
実は、普通オープンしてリニューアルというのはその当時だったら、だいたい10年くらいしてリニューアルされるんですけど、思うところがあって、僕は2年目でリニューアルしたんです。
その時に、福岡中のお菓子屋さん、諸先輩の方々から助けて頂いて、2年目のリニューアルというのを成功させる事ができたんです。
それがキッカケで、そこから!本当に徐々に徐々に忙しくなってきたんです。
田中
ではその2年間というのは自分が思ったような売れ方はしなかったと?
その頃は看板商品は何かあったんですか?
濱田氏
2年間は本当に厳しくて、看板商品もなかったんでしょうね。
その2年目のリニューアルで今の「濱田シュー」というのを出したんです。
出来立てで、クリームもご注文を頂いてから詰めるというのを目の前でやって、それで100円という価格です。
田中
では「濱田シュー」で売れ出したって事ですね。
濱田氏
そうですね。
お客様も売り上げも伸ばす事ができて、2年目からですね。
それで、テレビに色々取り上げて頂きましたし、それからがキッカケだったかもしれないですね。
田中
濱田オーナーは結構商品開発されていますよね。
ドーナツとか普通だったら「お菓子屋さんでドーナツ?」みたいな感じがありますよね。
濱田氏
あれはですね。
どう言ったら良いか、オペラらしいと言うか、決して別にうちは高級感をうたっているわけでもないですし、
それと「オペラ」という名前なんですけど、特別フランス菓子もうたってないので、確かにオペラらしい部分で色々開発はしています。
それで新商品を出す度に取り上げて頂いて非常にありがたいです。
田中
菓子職人にとって大切な事は。
濱田氏
一番大切な事といったら、やっぱり「何でもいいから一番になる」一番を目指すというのはすごく菓子職人にとって大切な事かもしれないですね。
「何でも」いいんです。
今の子たちは平均点、偏差値時代で平均点を取る考え方をする子が多いから、何でもいいからひとつ自分の中でこれは誰にも負けないという一番のものを持つ、これが大切な部分なのかなと思いますね。
それと、「片面だけでものを見ない」事、たまには引っくり返したり、後ろに回ったり、色んな方面から物も人も見れるようになる事、そう言う柔軟性が大切ですね。
田中
これから菓子職人になろうとしている人にアドバイスがあればお願いします。
濱田氏
やっぱり「お役に立つ」という考え方がないと、菓子職人は難しいです。
それが、例えば修業中だったら「お店の為に」だとか「オーナーの為に」お役に立つと、実際にオーナーになってからは「お客様のために」という事とまったく一緒ですから。
その中でお店を経営するという事をトータルで考えないといけないんですよね。
結局、作ったものは「評価」を頂けるじゃないですか。
だから喜びも倍増ですよ。もちろん厳しい事を言われる事もあるし、喜んで頂いた時に、その「笑顔」だとか「声」だとかそういうのがあるから、
多分この職業ってやめられないんでしょうね。
やっぱり「素直な人間」じゃないと、この世界は難しいと思います。
先程と同じですけど、平均点を取ろういう気持ちじゃなくて、やっぱり何でもいいから得意技を作って、その部分に磨きをかけて一番を目指すというような考え方。
それと、お菓子屋は団体競技ですので、「協調性は絶対大切」なんだという事、個人競技じゃないですもんね。
田中
本日はありがとうございました。