フランス菓子ジャン・ドゥ



田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、子供の頃の好きな科目と、
熱中した事はありますか?
陶山氏
昭和36年9月11日、出身は福岡県の太宰府です。
子供の頃の得意科目は理数系が好きで、特に音楽、国語、英語以外は大好きでした。
熱中したものは、外で友達とよく材木の切れ端で物を作って遊んでいたのを覚えています。

とにかく、自然も多かったので、近所の子供達といろいろ自分達で遊びを考えて、外で遅くまで遊んでいました。
シェフ
田中
パティシエを志したきっかけは?また、修業時代のお話をお伺いできればお願いします。
陶山氏
お菓子屋で行こうと決めたのはフランスに行く27歳の頃です。福岡の調理の専門学校を出て、「レストラン花の木」に就職しました。
当初は1年半ウエイターから始めてキッチン待ちをし、その後、料理「フレンチ」をしました。

今、商売をして思うことですが、もの作りの前に、
接客を含めてオーダーを出すにあたっての一番大事なお客様商売を徹底して教えて頂きました。
キッチンに入って1年ほどしまして、自分が尊敬するチーフが代わったんですね。
それを機に自分も他のお店に行ってみようと同じ福岡の赤坂にある「ムッシュブッファン」というレストランに飛び込みで入れて頂きました。
たまたまそこのオーナーが16区の三嶋社長と同級生だったんですね。
たまに、三嶋社長がいらっしゃいまして紹介は頂いていたんです。

そこでは料理全般を習いました。また、デザートは料理の最後の部分であり皿盛りのデザートを作るうちに、デザートやお菓子に興味を持ち始め本場のフランスに行ってみたいと思うようになりました。
フランスに行く時にはそのレストランのシェフに紹介して頂いたんです。
フランスでは、リヨンのホテルのレストランでデザート部分を任されていました。
半年ばかりいた時に本格的にお菓子も覚えたいという気持ちが強くなり、リオンからパリに行ったんです。
パリには16区の三嶋社長に紹介状を書いて頂き、お菓子屋に入ることが出来ました。

パリのお菓子屋さんではお菓子全般、パンなどいろいろ勉強をさせて頂きました。
修業時代は無我夢中だったですね。
料理もそうですが、お菓子の形を作る事に関して驚きの連続でした。自分自身好奇心の塊だったから
全てが体の中に染み込むように吸収しました。つらいというより、楽しかったですね。
全てがマジックの種明かしをひとつづつ解き明かすような感じですかね。

驚きと、ときめきと、その作り方がわかった時の感動と、またそれを使って人を喜ばせようとそれの連続でした。
田中
休みの時とかは何されていたんですか?
陶山氏
日本のフレンチレストランの時には
本屋に料理の専門書をよく立ち読みに行ったり、あと趣味でバイクに乗っていましたのでツーリングをしたりモトクロスですよ。
うまくはなかったですが、一時期はバイクを7台くらい持っていました。
大会にも出たりしましたけど、優勝を狙ってというよりまず自分が楽しむ事がいちばんでした。
ひとつのストレス解消と気分転換の部分もありましたね。
結構機械いじりも好きでしたし、やはり作ることが好きだったんでしょうね。
今はモトクロスはやっていませんが、ツーリングは好きですね。
田中
お店を出そうと決心されたのは幾つのときでしょうか?
陶山氏
高校の時に思っていたのは商売をするんだったら小さくても自分が主というのを考えていました。手に職を付けて人様に役に立ちながらもご飯がい頂ければと思っていました。本格的に思ったのはお店を出す勢いもありますけど、30歳過ぎた頃ですね。
フランスから帰ってきて福岡のフランス菓子16区に1年間お世話になりました。
それから、もう1年東京のほうへ勉強に行きました。それで、福岡に帰ってきて独立をしました。
地元をいろいろ探しました。駅前や五条、太宰府天満宮の近くと、いろいろ探す中でたまたまこの場所である通古賀に決まりました。

文字

田中
ジャンドゥの名前の由来ですけどお聞かせください。
陶山氏
よく聞かれますね。
ジャンと言うのが「なんとか太郎」の名前の部分です。フランスでお世話になった方の80%以上がこの「ジャン」なんです。
みんな頭に「ジャン」が付いたんです。その方たちに敬意を表す意味で頭に付けたんです。

「ドゥ」と言うのは男性名詞が「ドゥ」ですけど「ドゥセル」って言ってフランス語の「甘い」とか「甘味」「お菓子」総称して、
子供に上げる駄菓子。
身近なお菓子という意味で、含めた、俗語で「ドゥセル」ってのがあるんです。「ジャン」が男なんで「ドゥセル」が男性名詞。
フランス語で「ドゥ」になりますんで造語って言えば、造語です。フランス人にその説明をしたらすごく素敵だと、
ちゃんとフランス人に通じたんです。
うれしかったですね。
田中
お店をオープンされて、今年で何年ですか?オープン当時のお話をお願いします。
また、太宰府である地元のお菓子を出されていますが・・。
陶山氏
2008年で15年になります。
オープン当初は4名で始めたお店ですけど、その間、改装を6回程しました。
売り場面積も当時から比べて3倍、厨房も2倍になりました。
12年目くらいまでは、商品内容も替わったりとかしましたね。

12年目から、ひとつ自分が疑問に思う事があり、これからのお店のあり方をもう一度見直そうと・・いろんな事を手広くしないで、数字だけでなく、大きさだけでなく、使命というか地元に還元できることがないかと考えて、その準備期間は、2年半位前からです。国立博物館が出来たのがきっかけで、これだと思いました。
試行錯誤し、形、ネーミング、味etc。やっと形になった品が「飛すれば・太宰府梅マドレーヌ」と「宰のUiさいのウィッ・ごまパイ」です。自分はお菓子屋ですけど太宰府に生まれ育った地元への恩返しと言う意味で太宰府を自慢して持っていける太宰府をうたったお菓子で喜んで頂けたらと思います。やっと形になり、これからも楽しくやっていきたいと思います。

また、店舗が大きくなったら大きくなったらでそれなりの人の問題とかもありますけど、やはりスタッフは大事です。
お陰様で現在はスタッフも30名くらいになりました。地域の皆様のお陰だと感謝しております。

田中
ジャンドゥさんから独立された方とかはいらっしゃいますか?
陶山氏
長崎、山口、久留米、佐賀いろんなところにお店を出して、活躍していますね。
田中
菓子職人にとって大切な事は?
陶山氏
正直であること、もうひとつは美味しさを通じて人を感動させること。
もっともっと、いつまでも自分が感動できる事が大切だと思います。
自分が感動できなくなると、物に気持ちも命も入らなくなってきます。

田中
菓子職人になりたいと思っている人にアドバイスを。
陶山氏
お菓子屋になるまでも大変ですし、面接でよく話すんですけど。
「どうしてお菓子屋さんになりたいのって」
お菓子作って褒められてうれしかったから、私はすごくそれは純粋ですばらしいことだと思います。
でもある意味、何年かそのお菓子屋に入って修業して2年、3年、技術を覚えて、いよいよこれでお菓子屋さんになれたと、
初めてその時の夢が叶った。でもそれで終わっちゃう人があまりに目立ってきたように思います。

逆に言うとそれからはじめて、それを使って、それを生かして、それを工夫して、お客様が喜ぶ為にいろんな今までの経験であるとか失敗だとか、反省だとか、うまく行った事だとか、技術だとか、そういう事が全部引き出しから出して、お客様の喜びの為に生かしていくのに、そこだけがゴールになっちゃった。
本当はそこがスタートなんです。技術を覚えた時がスタートになるんです。

「お菓子屋さんになってどうするの?」「お店を出したいです。」今、本当に思いますね。
お店を出してからが大変なんだよって言いますね。
それを仕事にして、生活をしなければならないわけです。
でも、問題が前に進むってことは止まってなくて進展しているって事だから、その過程を大切にして、経験を積む事だと思います。
今からの子にはひと通り覚えてから始まるんだよ。それまでの経験や技術を生かせる人になって欲しいと思いますね。
田中
本日はありがとうございました。
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