アーク・アン・シエル



田中
本日はよろしくお願します。
まずは、生年月日と出身地をお願いします。
また、熱中した事や趣味はありますか?
光野氏
昭和49年9月13日福岡県東区出身です。
好きな科目は算数、熱中した事は中高と6年間、クラブで軟式テニスをしていました。
中学では市の大会にも出場しました。
毎日がテニスばかりの日々でした。
田中
ご実家が「セーヌ」さんですが、やはり小さい頃から意識していたんでしょうか。
シェフ
光野氏
ええ、小学校の文集とかを見ると「ケーキ屋さんになりたい」とか将来の夢に書いていましたね。
家の手伝いはまったくしていなかったんですが、高校3年の進路の時期になった時に大学受験を止めてお菓子屋さんになると決めて、高校3年の夏休みに神戸に行ってお店を探しました。
田中
神戸を選ばれたのはなぜですか?
光野氏
父が神戸で修行をしていたと言うのもあり、やっぱり神戸が一番お菓子屋さんも集まり競争率も激しい所なので、そう言うのを父から教えてもらっていて、神戸で店を探そうと思い食べ歩いて、神戸のお店に面接をお願いしました。
それで秋ぐらいに採用が決まって、高校卒業してすぐ神戸に行きました。
田中
修業時代はどうでしたか?
光野氏
6年間お世話になり、入社2年目くらいに阪神大震災も経験しました。
ちょうど三宮だったので結構、被害がひどかったですね。
たまたま、まだ仕事に行っていなくて、仕事場に行く前に地震が起きて、とりあえず店に行ったら、その時神戸のお店は5店舗あったんですがその内4店舗が潰れて、ほぼ営業できない状況でした。
それで1店舗で、材料や素材が何もなかったのでパンを焼いてお客様に安い価格で提供してました。
田中
その後はどうされましたか?
光野氏
翌年には、もうほとんど再開していて、他の店も建て直したりして結構復興は早かったです。
またバタバタ忙しくなって、いろいろ工場とかも新しく移転したりとか、朝から晩まで働きづくしで、地震の時は電気も切れていたので、朝日が昇ると同時に出勤して日が沈むと帰るような生活でした。店は自家発電も備えていて、オーブン等はガスだったので、一通りは作れていました。
田中
すごい経験で、まずない事でしょうね。
地震に遭われた時に、帰ろうとは思いませんでしたか?
光野氏
一度帰りました。地震が起きてすぐ地元に帰って、しばらくは自宅待機だったので・・・。
そしてしばらくして召集がかかり店を再開するからと・・で、みんな全国から戻って来て、そうしたら最初はパン作りばかりからだったという事です。結果、地域の方からも喜んで頂けました。

田中
その後、6年間の後は?
光野氏
次の修業先は鹿児島の「ケーキハウスヤナギムラ」さんにお世話になりました。
一度福岡に帰って来て、いろいろお店を探したんですけど自分の行きたい店があまり見つからなくて、九州で勢いのあるお店を探していたら「ヤナギムラ」さんを紹介して頂いて、それでとりあえず面接をして下さいと、ケーキを食べてすごく美味しかったので、それでもう「働かせて下さい!」とお願いしました。
ヤナギムラさんも神戸で修業されていたようです。
田中
ヤナギムラさんでの修業はどうでしたか?
光野氏
4年間お世話になりました。
経験者と言う事で入りましたが、新鮮に覚える事がいろいろありました。
ちょうどヤナギムラさんではシュークリームが爆発的に売れていた時で、朝から晩までカスター作ったり、1日中シューを焼いたりしていました。
田中
なるほど、結構言われるのが東京の味、関西の味とか、九州の味があると聞きますが。
光野氏
ええ、神戸で修行していたぶん関西の味になっていて、ヤナギムラさんのケーキというのやっぱり、すごく懐かしい感じで、違和感なく溶け込めました。
かえって福岡のケーキのほうが東京っぽいケーキで小さくて可愛らしい、関西のほうは大きいのが支流だったので、やっぱり違いますね。
田中
ヤナギムラさんに4年間いらっしゃって、その後は?
光野氏
それからは実家のケーキ屋に戻って2年間、そして「アーク・アン・シェル」を2005年の1月にオープンしました。
田中
自分のお店を出そうと思ったきっかけはあったんですか?
また、この場所に決めたのはどうしてですか?
光野氏
もともと帰ってくる時点で自分の店は持ちたいと思っていたんですけど、で、やっぱり父の作るケーキとは違うので、それがどんどん強くなってきまして、やっぱり地元で店を出したいというのもあり、ちょうどここは副都心で今から開発される土地で、千早駅も近くにあり、これからの良い場所かなとこの辺りを目処に探していました。そうしたら丁度良い物件があったのでここに決めました。
田中
「アーク・アン・シェル」の名前の由来なんですが。

光野氏
フランス語で「虹」という意味で、人と人との架け橋になるようにという思いでこの名前にしました。
田中
オープン当時はどうでしたか?また、何人から始められたんですか?
光野氏
オープン当時は4人です、製造が4人で販売はいませんでした。
パートさんだけで作りながら接客という感じです。
また、お客様の声が聞きやすいように、お客様との距離を短くしようと思ってオープンキッチンにしました。
田中
開店当初はどうでしたか。
光野氏
やっぱり大変でした。もう朝から晩まで作りっぱなしでなかなか休みも取れずに、で、ようやくアルバイトやパートさんとか人を入れてから、少しずつ楽になって来ました。
田中
菓子職人にとって大切な事とは何でしょうか。
光野氏
自分に妥協しない事ですね。
あとは、遊び心を常に持つ事を考えています。でも想像があまり豊かにならないので色々もっと遊んでおけばよかったのかなとつくづく思います。
高校を卒業してすぐに修業に入ったので、もっと引き出しを持っておけばよかったと。
フルーツひとつ飾るにしても、違う発想があると思います。
田中
これから菓子職人になりたいと思っている人にアドバイスがあれば。
光野氏
不思議なんですけどね、入る前はすごいやる気あるなぁと思うんですが、いざ入ってみると1ヶ月で辞めたりとかありますね。
結構すぐに折れる人が多いので、自分の信念を持ってしっかりとやりたい事をやって欲しいですね。
後は夢を持って欲しいです。
入ってくる子たちも「自分の店を持ちたい」との想いで入って来ますが、その夢を目標に変えて、今は勉強の時と思って、ある程度の犠牲があるかもしれませんが、その目標のためにまず3年間は頑張って欲しいと思います。
田中
本日はありがとうございました。
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