田中
本日はよろしくお願します。
まずは、出身地をお願いします。
また、子供の頃はどんな事に熱中していましたか?
片嶋氏
お菓子屋の長男として久留米で生まれました。
私が小学校の頃に、父が甘木の夜須町で独立し、それからは高校まで甘木で過ごしました。
子供の頃はクロンボ大会では一等賞取るような遊びに夢中!勉強嫌いな子供でした。
高校の頃にはバイクを買うために新聞配達のアルバイトをしたり、夏休みになると鈴鹿サーキットのロードレースを見に行ったり、休みの度にガソリンを満タンにして、
シェフ
集まるバイクの仲間とダムの峠道を攻めたり、ツーリングしたりと高校時代はそれほどバイクに夢中になりました。
あとは高校時代に極心空手をやっていました。
田中
今のイメージとは全然違いますね。
片嶋氏
そうですね。どういう髪形をしたらいいのか分からずに高校時代は角刈りにしていました。
高校は商業高校だったんで女性が多く、そんな色気より野郎と遊ぶほうが楽しかったです。
そんな青春だったですね。
田中
将来の事を考えるようになったのは、また、パティシエを志したきっかけは?
片嶋氏
考えるようになったのは、父がお菓子屋で独立していましたから、そうですね中学の時です。
その為に商業高校に行ったのも将来商売をする為です。
高校の時には僕は跡継ぎだろうと、高校を卒業したらすぐに修業に行きました。神奈川の「ロンポワン洋菓子店」で5年間、同じ神奈川の「ニコラス洋菓子店」で2年間修業しました。

その後、この世界にいるんだったら一度は、本場フランスのお菓子を勉強してみたいとフランスへ行きました。
フランス、ベルギーと3年間で5店舗のお店で勉強をさせて頂きました。
その後、福岡に戻り「カカオロマンス」で2年間お世話になり、1997年の11月にここ筑紫野市原田で
ル・サントーレをオープンしました。
田中
修業時代のお話をお願いします。
片嶋氏
神奈川の「ロンポワン洋菓子店」では、はじめに、ここに入った時に5年居ろと言われていましたし、
マンツーマンでしたので、大変勉強になりました。
一からだったんで、不満がないって言うか相談相手もいない、全て間違えた事は一人しか居ませんから全部、僕が悪いんですよ。
だから言い訳も出来ない、逃げ場もない、そういう状況でした。

住まいは四畳半一間でボロボロ、真ん中に通路があって裸電球も壊れているような、夜中に帰ると通路が分からないんですね。
下が鉄工所でアパートには誰が住んでいるか分からない。住めば都で7年間そこで暮らしました。
当時、探してもらった中で一番安いアパートだったんです。

次の「ニコラス洋菓子店」では5年間修業していましたので、中堅で入りました。
いろんな仕事をさせて頂きました。
ここで貯めたお金でヨーロッパに行ったんです。
田中
フランスでの勉強はどうでした。
片嶋氏
いじめられているのが分からないって言うか・・最初はグラムを測るだけで疑われて、そうですよね、分かっているのか、分かってないのか分かりませんから何言っても「ハイハイ」しか言わないから。
単語は分かるんですけど、粉を取って来いと言っているのが分からない。
たとえば砂糖何グラム計って、「階段の下の右にあるからそれを取って来い」とその単語が分からないわけですよね。
それで下に行ってこの粉かと持ってきて来たら・・違うと、向うはイライラするわけですよ。
最初フランスに来た時に辛かったのは、言葉が分かる中で日本人(ジャポネ)と言われている言葉だけピィーンと入るわけです。

あの日本人がやったみたいに言われているんだなぁと、「やられているなオレ」と思いながら、自信安危になって落ち込むようなことはいっぱいありました。
言葉が通じるまで大変だったですし、言葉を覚えるのに一生懸命でした。
だから教えてくれるって言うより見て盗んで、やれって言われたらそれをやるような感じです。
言葉が出来ない代わりに仕事が出来ないとやっぱり辛いんで、まぁ仕事がある程度出来るようになっていましたから良かったんですけど、言葉の壁はかなりありますね。

自宅に帰って言葉の勉強と仕事の勉強をしていましたから睡眠時間はかなり短かったです。
それから次の店に行きまして、レストランだったんですけど、食事の間に食べるようなチョコレートやデザートを作ったりしました。
言葉が分かるようになったら自分の下にアプランティっていうか見習いの子を就けて「使っていいよ」と、楽しかったですね。
それからはシェフの下に就いて仕事をしました。
ベルギーのサントーレでは仕上げでがんばってました。

そのシェフが辞めてしまったんで次のシェフの引継ぎは全部僕がやりました。
そういう面ではいろんな勉強になりました。それからですね福岡に帰ってきたのは。

文字

田中
それから「カカオロマンス」に入られたんですね。
片嶋氏
この業界に入った時からフランス菓子、次の店もフランス菓子、そのままフランスに行ってフランス菓子とよく考えたらシュークリームもやったことがない、ショートケーキをやったことがない、ロールケーキをやったことがない、結局そんな職人だったんです。
修業ですぐ東京に行ったので福岡のお菓子を知らないわけです。
その意味で福岡で働いてみたいという気持ちで「カカオロマンス」で2年間お世話になり、その後独立をしました。
田中
オープンは何年ですか、また、この場所に決まったのは?
片嶋氏
1997年の11月です。30歳の時に独立しました。
この土地は区画整理で整地だったんです。
業者の方からは3年間はキツイと言われていましたが、この土地を見た時に気に入りましてここに決めました。
明るくて雰囲気が良かったですね。
田中
ル・サントーレの名前は?また、オープン当時はどうでした?
片嶋氏
ル・サントーレの名前は私が最後に修業したお店で、オーナーシェフからこの店名を日本で使うことを快諾してくれました。
オープン当初、スタートは僕一人の予定だったんです。
オープン記念は出来ないと思ったんです。
結局、僕は東京での修業だし、カカオロマンスも企業でしたので職人さんが応援という感覚ではないわけです。

友達もいない訳で、一人かなって思っていたら東京の友人とか後輩、フランスで一緒に働いていた日本人の友人が来てくれるということになって、ひょつとしたらオープン記念が出来るかもしれないと思ったんです。
友人が三ヶ月か半年間いてもいいよと言ってくれて、また、後輩が1年間勉強させてくれと、それで人が揃ったんです。
最初はオープンして売れたら人を揃えたいと思ったんですが、スタートは3人から始める事が出来ました。

オープン当初は眠れませんでした。
睡眠時間3時間、4時間が半年間続きました。三ヶ月目に胃に穴が開いて・・胃潰瘍です。薬を飲みながら仕事をしました。
最初は休みなしで頑張るつもりでしたが、このままでは身体が持たないと、毎週火曜日を定休日にしました。
本当に友人も朝から晩まで頑張ってくれましたね。

田中
菓子職人にとって大切な事は?
片嶋氏
食べる人の身になってお菓子を作る事ですね。
修業時代によく先輩から「自利とは利他」自分の利益は他人の利益の事を言うと、それが直接利益には繋がらないかもしれないですけど、食べる方が「美味しい」とか「幸せ」と感じて頂く事が、この仕事をやって良かったと感じる瞬間です。
それは何ものにも変えられない喜びです。
それが味であったり、価値観であったり、お店作りであったりです。
田中
今後、菓子職人になりたいと思う人にアドバイスがあればお願いします。
片嶋氏
まず、自分主義じゃなく、他人主義になると言う事。お客様の事を想ってちゃんとお菓子を作るという事。
そうしたら先輩とかオーナーから注意された事がよく分かると思います。
自分の事だけ考えていたら言われても言い訳とか「僕はこうだったのに」が出るんですけど、相手の立場になってモノを考えれば、不満だとか、行き違いは無くなるんじゃないかと思います。

やっぱりお客様の事を第一に考えないと駄目ですね。
人はどこまで改善しても、当たり前は当たり前ですから。
うちのモットーは”自分がお金を出して買いたくないお菓子は他人に売るな!”です。
人材が材料の”材”でなくて財産の”財”になって欲しいですね。
田中
本日はありがとうございました。
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