田中
生年月日と出身地をお教えください。
また、子供の頃はどんな事に熱中していましたか?
松島氏
1965年10月8日です。雲仙市小浜町です。
小学校の頃は山や海で近所の子供達と連れ立って毎日遊んでいました。

中学校の頃は本当に目立たない子供でした。
人がする事に便乗して、自分で行動することって本当になかったです。今思うと情けないですね。

高校時代は応援団に入りまして、これまた格好ばかりで、またまた友達に便乗する子供でした。あまり中学校の頃と変わってないです。とにかく自分のはっきりした意思がない子供でした。
シェフ
田中
パティシエを目指した、志したきっかけは何ですか?
松島氏
正直、ケーキは好きだったですね。うちの親は一回もクリスマスケーキを買ってきたことがなかったんですよ。
親父は漁師でして、取引先の網とかロープ会社の社長さんが毎年クリスマスケーキを持ってきてくれたんです。その頃はバターケーキですよ。

それで、高校を卒業したら就職を考えていたもんですから、先生から「おまえどうすっとか」って聞かれて、別に考えてなくて、いろいろ就職先の会社案内を見ていた時に神戸のお菓子の工場があったもんですから、ケーキが好きだしケーキも食べれるかも知れない。ケーキだとカッコいいかな〜と、それで先生に面接を受けると言って、単純な気持ちでした。
面接を受け内定が決まったんですよ。
でも、結局行かなかったんです。

先生に「俺はいかん」って言ったらお前が行かんかったら次の後輩のためによくないと、とにかく行けと、いやだ!と
何で行かんとかって・・押し問答ですよ。
お天道様の下で働きたいと言ったんですね。本当は神戸が長崎から遠かった理由ですけど。
それから、就職も決まらないまま卒業して、友達を頼って福岡に行ったんです。
仕事はバイトばかりで7回変わりました。6畳2間に8人の生活でした。
共同生活で20歳までそんな生活でした。

僕がたまたま母親に教えたアパートの電話番号をひとつ番号違いで記録してたんですよ。
それで、母が私に用事があり電話した時に、当然番号が違うもんですから、たまたまそれが組事務所だったことから母がびっくりして、「アレはばかちんやけんが何があるかわからんけんが連れ戻しに行ってこい」と兄貴に言ったそうなんです。
それで、福岡のアパートを探して来たんですよ。

そして、無言でぼこぼこにされました。はじめてですね。「なんば親に迷惑をかけよっとか、かあちゃんは泣きよっぞ」って・・そして、ごめん真面目になるってそこからすぐアパートを出ました。それで、長崎のロープ会社の知り合いで福岡の方が「あんた何をしたい?」って言われて、そういえば自分はケーキが好きだった事を思い出して「ケーキを作りたいです」と言ったんです。
そしたら、福岡でも大手のお菓子屋さんを紹介するかって事になったんですけど、あんたの気性からいって長続きはしないだろうという事でその大手のお菓子屋さんから福岡にある個人店のフランス菓子16区を紹介していただきました。
田中
それで16区さんに入社されたんですか?
松島氏
それがですね。紹介される時に厳しい所だぞという事で16区を紹介されたんですね。
面接に行きなさいと言われました。今から22年前ですね。
緊張して面接に行きました。自分なりにビシッと決め手ですね。
そうしたら、ムッシュが一言「お前何しに来たとか」って言われました。

「いや面接に来たとばってんが」と、そうしたら「きみは面接する心構えじゃない、格好も違う、面接してほしければ身なりをきちんとしなさい。
坊主にして、スーツを着て、出直して来なさい」と言われました。
それで、スーツを買って坊主頭にして再度面接に行きました。そしたらムッシュがとりあえず面接できる格好になったと面接してくれたんですよ。とにかく入社するにあたりいろんな条件を出されました。
それでも来るかよ〜く考えろと言われたもんですから、即答でね「はいお世話になります」と言ってしまったんです。
ムッシュはそれはすごいオーラーでしたよ。有無を言わさぬ迫力がありましたね。

ムッシュは面接であえて条件面でいいことは言わずに厳しいことばかりしか言いませんでした。
その時思いましたね。この人の元にいれば自分もまともになるんじゃないかと・・。
そうしたら、ムッシュが親を連れて来いと言われまして、「え〜っ親ですか」ムッシュは「親父さんに話をする」と、それで親父に言ったら「わがんことやけん、またすぐ辞めっとやろが、行って恥かくごんなか」って言われて「今度は絶対辞めんけんが」と、何とか言って親父と一緒に福岡に面接に行きました。

それで、ムッシュと親父が意気投合してですね。
親父が「こんばか息子は、煮て焼くなり、腕の一、二本折るなり、どげんでもして下さい、私はひとことも言いませんから」と言ったんですよ。
すると「お父さんよく言いました、遠慮せずにやらせていただきます」とムッシュも・・。それで修業が始まったわけですよ。
でも、仕事では厳しかったですけど、社員ひとりひとりには本当に優しかったですよ。

文字

田中
16区さんには何年いらっしゃいました?また、その後のはどうされたんですか?
松島氏
そうですね。20歳から33歳まで13年間いました。
30歳過ぎていろいろ考えていた時に自分の店を持ちたいと思うようになったんです。
それで、ムッシュに「1年後の夏に辞めようと思ってます」と言ったんです。
「そうか辞めて何するとか」「田舎に帰って店を出そうと思っております」「そうか俺も忙しいから半年後にもう一回言え」と、それで半年後に言ったんですね。

すると「3ヶ月後にもう一回言え」と、それで3ヶ月後に言ったんですね。
すると「そうかお前辞めると言ってたな、それでどうするとか」「だから帰って店を出します」「場所は決めたとか」って言われまして「いいえ」そうしたら「来週の月曜日に長崎に行くぞ」って「えっ〜はい分かりました」で一緒に長崎に行ったんですよ。
長崎市内、諫早市内、島原市内と回ったんですよ。

その時に、ムッシュが「おっ車止めれ、今、空き家があったろうがユーターンせれ」と言ってその空き地に入ったんです。「ここ場所いいな国道沿いだし、土地も広いし」「ここは何もない所ですよ。こんな所でケーキを作っても売れんですよ」と言ったら「馬鹿か、なんば言いよっとかいちばん大事なのは美味しいケーキを作ればどこからでもお客さんは来てくれる。まして田舎であれば交通手段は車だろうが車を止めるスペースがある、人が来る海水浴場もある」それですぐにムッシュが不動産に電話していろいろ条件を聞いて、「即座に契約や」と言ってたんですよ。
「え〜っと思いました」先見でしょうね。

道路の前にはコンビニがあるんですけど、コンビニがあるって事は車の通りがあるって事なんです。
まして、この千々石は島原半島に行く出入口ですからね。そこで、ムッシュが「一週間ここに車を止めて車の流れを見とけ」って言ったんですよ。一台一台の車がここに入ってきてお客様がお菓子を買われる想像をせろと、そのうちに自分のお店がイメージできると言うんですよ。
やりましたよ一週間。

そうしたらこのトラックの運ちゃんがうちのケーキを買ってニコニコして家族に買って行ってる。
すると、だんだんイメージが沸いてきて、自分にもやれると思うようになったんですね。
それで、ムッシュに報告したんです。はじめは出来るかな〜が・・出来るかもな〜になり、出来ますになりましたね。「いけたろうが・・よし店をやれ」とはじめから自分の煮え切らない性格を分かっていたんでしょうね。

それで、親父に保証人になってくれと「絶対うまく行って見せる」と今までの自分じゃなかったですね。
親父も、やっと本気になったなと分かった金を貸そうと言ってくれて、それで開店準備が始まったわけです。
2000年3月6日にオープンしました。
オープンの3日間の売り上げはそれは凄かったですよ。
初日だけでお客様が630名でした。長崎の業者の方が言われたんですけど、お店が開店して閉店の7時まで商品を切らさなかった。ほとんどの店はオープンなのにもう昼の1時、2時に商品を切らして閉めましたとか、シュークリームとショートケーキが3、4品しかないとか、でもここは店が閉まるまでショーケースの中は満杯でケーキを切らさなかったのは始めて見ましたと。
それを3日間しました。

凄かったですね。でも凄いのは、ムッシュと先輩方ですよ。「お前はケーキを作らんでいい。作るのは俺達で作るからお前は店の前に立っとけ、それでお客様にここのオーナーだと知ってもらえと」言うんですね。
私は3日間お客様に粗品のロールケーキを配るだけでした。
これも長崎の業者さんから聞いたんですけど、普通、店がオープンすると、どの人がオーナーか分からないんですね。
でもお店の前で挨拶している方がここのケーキを作っているオーナーだとすぐに分かりました。
それで万全の体制でオープンできました。
田中
オープンの模様はよく分かりました、それからは順調に行ったんでしょうか?
松島氏
そうですね。オープンして5年目に落ちましたね。
何かこれまでは順調に来てたもんですから、慢心の気持ちが出てきたんでしょうね。
とにかく今までは売れないという時期がなくてそれこそ順調でした。
作れば売れるという状態でしたから、慢心と甘えでしょうね。それがスタッフに伝わって努力をしなくなったんです。
それがお店にも伝わりお客様にも分かったんでしょうね。2005年でした。

それでこれではいけないと思い先輩とかにも相談しました。もちろん渇を入れられました。初心を忘れてはいないかって、お客様をちゃんと見てるかって・・考えた時に発心しまして、それからお客様も増え始めました。
その時に思いましたね。自分の日頃の振る舞いがお店にあらわれるんだとしみじみ思いました。

田中
菓子職人にとって大事なことは?
松島氏
毎日を飽きないこと、よく関西で商い(あきない)と言いますよね。
これは私の解釈なんですけど、商いイコール商売。
毎日作っているロールケーキの生地にしても飽きてしまったら商売にならないですよね。
飽きないで一生懸命する事だと思います。毎日同じことをやりながら新鮮さを見つける。
また、話し合いをする事です。うちは毎朝朝礼もしますし、行いなど反省すべきところがあれば注意しあったり話し合ったりします。

接客にしても、製造にしても100%無理かもしれないけど、少しでもよくする為にはスタッフとの話し合いは大切にしたいですね。これも飽きずにする事の一つでしょうね。
田中
これから菓子職人になりたい人にアドバイスがあれば。
松島氏
これは私が今までやってきた中での正解か分からないですけど、やってみないと分からない事もあると思うし、決めて関わらなくてもいいんじゃないかと、僕は菓子職人になるんだ。僕は何年後に店をするんだと決めて入っちゃうと自分で決めちゃうんですよね。
ここに何年いて次にどこそこに何年いてとかじゃなくて、修業に行ったところにたまたま1年間だったかもしれないし、10年だったかもしれない。
自分が30歳になって店を出す目標が50歳になってお店をしてもいいじゃないか。

目標はもちろんあってもいいと思うんですけど、やりたいことをやって、今、自分がしたい事を、今、自分が出来る事を一生懸命やれば自ずと道は開けていくと思います。菓子職人として、ひとりの社会人として行けると思いますね。スタッフにも言っていますよ。
楽しくやろうやと、気持ちよくやろうやと・・。
でも、その為にはルールは絶対必要であるし、このルールは守ろうねって言ってます。それだけです。
自分のスタイルでこれからもやっていきたいと思います。
田中
本日はありがとうございました。
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