吉野
生年月日とご出身地を教えてください。
八幡氏
1964年6月25日愛媛県の今治市の生まれです。
吉野
小学校の頃の八幡オーナーは、どういうお子さんでしたか?
八幡氏
外で遊んでばかりの子供でした。色々考えて工夫して遊ぶんです。
ボールひとつあると友達を集めてネットみたいなものを作ってバレーボールみたいな事をやってました。
それとサッカーやソフトボールには特に熱中してました。
シェフ
吉野
得意な科目とかありましたか?
八幡氏
算数とか体育とかが得意でしたけど、国語や社会などの暗記する科目はだめでした・・・というよりも嫌いでした。
吉野
ワンパク少年という感じですか?
八幡氏
ワンパク少年ではなかったですね。他にももっとワンパクで乱暴なヤツらもいましたんで・・・・比較的真面目なほうでしたね。
吉野
お菓子作りとか料理を作ったりとかしていましたか?
八幡氏
特別になかったです。父が四国で母恵夢(ポエム)という菓子店の工場長をしてたんです。母もその店で販売の仕事をやっていたもんですから土曜や日曜日とか忙しいでしょ。ですから必要に迫られてインスタントラーメンを作る程度でした。
包丁を持つという事はありませんでした。ただ洋菓子というのは身近にありました。
クリスマスの時はデコレーションケーキが家に10台くらいは普通にありましたし、普段からケーキはよく食べていました。
ケーキのデザイン画を描くのが好きでした。自分で空想して色んなケーキの絵を描いていました。
吉野
菓子職人になるキッカケはあったんですか?
八幡氏
そうですね・・・・。高校を卒業してからはまったくお菓子とは関係のない貸衣装の会社に就職したんです。
将来なりたい職業というものは当時なかったもんですから、高校に募集がきていたその会社に何となく受けたら受かったという感じでした。スポーツが好きといってもプロという選択肢はありませんでしたし、絵が好きでも画家としても力量があるわけでもないというのは自分自身がよく知っていました。
経済的に大学に行けない事はなかったんですが、大学で勉強して何になりたいという道筋が見えてこなくて大学には魅力を感じることはありませんでした。
ただ何となく自分の力で一番になりたいという気持はありました。だから、その貸衣装の会社で一番になりたいと思いました。
貸衣装のお客さんをとってくる営業だったものですから、その営業成績で一番を目指しました。
吉野
菓子業界とは違いますね。で・・・どうでした営業成績は?
八幡氏
その会社の営業方法が美容院からの紹介で婚礼の新婦さんの情報をもらうって事でしたので、美容院への挨拶回りを毎日してました。
父が持ってくるケーキを美容院に持って行ってましたので、かわいがってもらって紹介も多かったです。
営業成績もかなり良かったから社長にも気に入ってもらってました。社長のクラウンを営業車代わりに乗り回していました。
吉野
営業が合っていたんですね。では、どういうキッカケで菓子職人の道に入られたんですか?
八幡氏
実は、その社長の車で仕事中に人身事故を起こしてしまったんです。
自分の車を乗る時には、かなりヤンチャな運転をしてガードレールにぶっつけたり川へ突っ込んだりしてたんですが、仕事では逆に慎重な運転をしていたんです。おじいさんが信号無視で自転車で車道を渡ろうとしたときに車で接触したんです。
幸いにも大した怪我ではなかったんですが、車を運転するのが怖くなって・・・車を運転しない仕事を捜そうと本気で考えました。そして、東京ならほとんどの移動は電車だし、車を使わなくてすむ。それと漠然とですが自分の腕で勝負できる仕事をやりたいと思って東京で菓子職人の修行をしようと考えました。
吉野
菓子職人という発想はやはりお父様の影響ですか?
八幡氏
そうですね。自分の腕で勝負できる仕事と言えばやはり父しかいなかったんで、東京で洋菓子職人としてスタートしようと考えました。心機一転菓子職人で一番になろうと決めたんです。
吉野
どなたかの紹介で洋菓子店を決めたんですか?
八幡氏
父の紹介でメーカーさんにお願いして20数店舗連れて行ってもらうようにしてたんですが、行く店行く店でケーキを2・3個食べるんですよ。「その中から好きなケーキ屋を決めろ」でしたから最初はよかったんですが、もう2日目から憂鬱になりました。美味しいケーキでもそんなには食べれませんから。
そんな時に銀座にあった「エルドール」という洋菓子店の職人が辞めたんですぐに働けるという話があり、でそこに決めました。店は、今はもうありませんが、当時は有名な繁盛店で40人近い職人がいました。
当時では洋菓子店の「東大」みたいな店で、そこで修行したら、いくらでも転職先がありましたし、技術的にも優秀で、洋菓子のコンテストでは毎回トップも含め7人から8人は入賞してました。そんな店に入ることができたんで本当にラッキーでした。
中途採用でしたが良いスタートがきれたと思いました。僕も賞をいくつか取らせていただきました。
吉野
そこの方々とは交流はありますか?
八幡氏
はい、今でもOB会があっていますので、交流や情報交換はしています。
吉野
いかがでしたか、菓子職人の修業は?
八幡氏
大変でした。何度辞めようか・・・・というより逃げようかと思いました。
理由は長時間の重労働と上下関係の厳しさですね。殴る蹴るという事は僕らの時代までは日常的にありました。でも、自分も含め殴られるのは、先輩のその時の感情ではなく完全に自分たちが悪い場合だけだけだったんで変なしこりや逆恨みと言うのはありませんでしたが、やはりイヤでしたね。
でも、基本的にはかわいがってもらいました。
吉野
当時は、そういう時代ですね。お住まいはどうでした?
八幡氏
住まいは共同トイレの風呂なしのアパートで4畳半。家賃が25,000円でした。1980年代ですから、当時でも高い家賃でした。築40年で窓もちゃんと閉まらない部屋だったんです。
吉野
なかなか厳しい時期でしたね。
八幡氏
はい。修業時代は自分との戦いでしたねぇ。
始発電車に乗れても終電には乗れない日が多かったんで、店の食堂に寝袋ひいて寝てました。「手の遅いヤツは泊まれ」って感じでしたから。
休みの日はほとんど寝てましたけど、1月から3月まで皆で休みのほとんどはスキーに行くんですよ。ただ、僕の場合は、スキー場までの車の運転手です。長野や新潟によく行きました。
吉野
車の運転がイヤで東京に来られたんですけどね。
八幡氏
そうなんですよ。とにかく東京での修業時代は鍛われました。
でも、いつも店のスタッフに言ってるんですが、僕はいつでもそこへ戻れるって・・・だから思い切った経営ができるんだと思います。あそこよりも悲惨な所はありませんでした。本当にどん底でしたけど、でも失敗してもそこからいつでもスタートできるって思っています。
吉野
そういう時代があったから強くなれたんですね。エルドールでは何年間修業されたんですか?
八幡氏
4年半お世話になりました。洋菓子の基礎から一通りの事はやれせてもらいました。
吉野
その後、どうされたんですか?
八幡氏
福山に戻り自分の店を始めました。
吉野
えっ?いきなり始められたんですか?
八幡氏
父が洋菓子店の会社を辞めて退職金があったもんですから、「お前帰ってきて店をやれ」って言われたもんですから。
自分としては、まだ23歳で年齢も若いし、あと2年か3年はやりたかったんですが、父に押し切られるような感じで帰ってきて始めるようになりました。
吉野
東京のお菓子が福山で通用するのかという不安はありませんでしたか?
八幡氏
僕としては、父は福山でも有名な店で工場長をやってたんで、売り方も売れるお菓子も分かってた思っていましたし、父も当然手伝ってくれるものと考えていました。
でも違っていたんです。親馬鹿ですね・・・自分の息子が東京銀座の有名店で修業して帰ってきて店を開くんだと回りに自慢してたみたいで、「俺はしないからお前が全て店を仕切れって」言われましてね。えっ?という感じですわ・・・。
僕がやっていたのは小さいプチガトーで1,000円はするような、飴細工をピンセットでのせるような高級洋菓子だったんですよ。それが、福山みたいな田舎で受け入れられる訳がありませんから、先輩に手伝いに来てもらって、相談しながらケーキを作りました。でも、根本的にケーキの考え方が違ってたんです。
昔ながらのモンブランに使う黄色いクリームなんか知らないわけで、モンブランに使うクリームは、栗を炊いて裏ごししてペーストにしてクリームを作っていましたから、モンブランペーストと言うモンブランの黄色いクリームの存在自体が分からないんです。素材から全て手作りで作ってましたから。
両親と自分と、アルバイト数名で2年間はやってましたけど、店を閉める事にしたんです。友達から「普通のケーキ作れないのか?」と言われてショックを受けたんですよ。
こだわりの都会的な大人のプチガトーは作れても、子供向けのケーキが作れない。これじゃ、だめだと思ったんです。父も僕をあてにして自分ではやろうとしなかったんで、借金は残りましたけどキッパリ店をたたみました。
吉野
よく決心されましたね。
八幡氏
そこそこは売れていましたけど、そこそこでは満足しなかったんです。やるんだったら繁盛店にしたいじゃないですか?
吉野
福山では通用しかかったんですね。
八幡氏
それは、何とも言えないんですが、今から思うと当時の僕の考え方だったからうまくやれなかったんだと思います。
やはり、もっと違った意味での洋菓子店を経営するノウハウが決定的に無かったのは事実です。だから、それからは、そういう事を身につけようと思いました。
吉野
「エルドール」での高い技術があっても、洋菓子店の経営には別の要素も必要だということですか?
八幡氏
地域性や店の雰囲気作りやコンセプトも考えた上で商品を出さないと「美味しい高級洋菓子」だけではうまくいかない場合もあると思うんです。
「エルドール」出身なら当時は引く手もあまたで高い給料を払ってもチーフとして受け入れる店もあったのは事実ですし、「エルドール」の師匠の鈴木先生の一声があれば、そのパティシエの信頼度は100%です。
鈴木先生もそのパティシエの技術や性格などを見抜いて行かせる店を選びますので、そのチョイスは間違いなく、その店にとっては凄い戦力になるんです。
ただ、僕の場合は、自分の店に関してのコンセプトやどういうタイミングで、どういうお菓子を出すかとという経験がなかったし、経営や経理・・・・もっと言えば原価計算などがずさんだったと思うんです。そこで、菓子作りや経理面までしっかりかれている洋菓子店を捜しました。
吉野
なるほど、そういう感覚で洋菓子店を経営する視点は大切ですね。
八幡氏
そんな時に、東京の浅草にケーキとパンを作っている「パリドール」という店が、千葉の行徳に新たに出店する洋菓子店を立ち上げるので手伝ってくれないかという話があったんです。
「パリドール」など数店舗を運営している会社が新規で立ち上げる店なら、商品の原価計算や材料のチョイス、経理のノウハウも分かるし、店の責任者の補佐と言う立場での採用なので包材の発注にも携わる事ができるという利点もあり、そこに入社しました。
吉野
勉強になりました?
八幡氏
とても、勉強になりました。
その後も、自分には無いスキルを磨くために新規で立ち上げる店を中心に仕事をしたいと思いました。
吉野
八幡オーナーの店は、和風をコンセプトにしていますが、その発想はいつごろからあったんですか?
八幡氏
「エルドール」で働いていた先輩や同期は、お菓子の技術を磨くためにフランスやヨーロッパなどの修業に出るというパターンが多かったんですが、僕は、別の方向で洋菓子店を考えてみたいと思ってました。
その時に考えたのが、洋菓子の店を「和風のコンセプトでお店や洋菓子を作る」という視点でした。今さらフランス菓子ではないと思っていました。
吉野
今でこそ、和風の素材を使ったお菓子などが増えてきてるんですが、その当時としては新しい感覚ですね?
八幡氏
今は、和の素材を使ったお菓子も増えてきていますし、和のテイストを取り入れた洋菓子店も増えていますが、当時としてはなかったですね。
ただ、そういう雰囲気的なものはあくまで私の好みの部分なんで、それを追求してもヨーロッパに行った連中に勝てるとは思っていませんでした。もっと経営的なものを学ぶ必要があると思っていました。
吉野
先ほどの新規立ち上げの店舗の原価計算や包材の選定、経理のやり方ですか?
八幡氏
そうですね。もっと具体的に言えば、スーパーでヤマザキのスイスロールという100円のロールケーキがあるじゃないですか?それがあの大きさで100円。凄いですよね。不思議だったんですよ。
当時はどういう材料を使ってどういう方法で作れるのかが不思議でした。こりゃあ、大手の生産ラインを勉強しないといけないと思いました。
それまでは、本格的なトップクラスの洋菓子の作り方しか分からなかったんです。もっと大衆的なお菓子の作り方に非常に興味を持ったんです。トップクラスのプチガトーを1,000円で販売する方法と大きなロールケーキを100円で販売できる方法を学ぶ事で、ヨーロッパに行った連中に勝てるんじゃないかと思ったんです。
千葉の洋菓子店の立ち上げの後に、岡山の倉敷にオープンする洋菓子店の立ち上げを経験して、1年間スーパーに和洋菓子を卸しているお菓子の製造会社に入ったんです。
吉野
なるほど・・・。でも、スーパーに卸すような洋菓子ってあまり美味しくないじゃないですか。
八幡氏
確かに質の良い素材を使った洋菓子店のケーキなどから比べたら美味しいとはいえないと思うんですが、その店に応じた洋菓子というものがあると思うんですよ。
銀座の洋菓子店なら高級な洋菓子が必要なお客様がいます。でも、主婦が家族と一緒にケーキを食べたいけど、給料日前だから100円のロールケーキを買う。同じ土俵で美味しさを比較するなら当然、美味しさの差はあると思うんですが、色んなシュチエーションでお客様はケーキを買い分けると思うんです。
1,000円の高級素材を使ったプチガトーも作れるけど、100円のロールケーキも作れるっていう経験がオーナーシェフの洋菓子店には必要だと思っています。
独立した時にはそれが分からずに、地元のお客様の懐具合や状況を考える事もなく、値段のはる材料を使って高いケーキを出してました。そこそこは売れるのですが、繁盛できなかったのは当然です。
吉野
なるほど、大手の生産ラインを学ぶ事で、学ぶ事も多かったという事ですね。
八幡氏
そうなんです。決して、大手の菓子会社が素材をけちって美味しくないものを作っているんではなくて、安く提供できるギリギリの原価計算をして素材を選び、より安く、より美味しい製造方法を研究しています。
そういう事が大切ではないかと思っています。自分が修業してきた洋菓子店の学んできた事をそのまま何も工夫しないでお菓子を作る事はだれでもできます。
でも、洋菓子店を経営する以上は、利益を出さないといけない。その為には大手の生産ラインや製造方法はとっても役に立つんですよ。ただ大手が作る全てを真似するという事ではなく、素材にしても大手の素材をそのまま使う事はできませんし、生産ラインにしてもオーナーシェフの店には大掛かりなラインはありませんから、大手の生産に関しての合理的な考え方や製造過程での素材の扱い方など参考になる部分はたくさんあります。
とても、うちでは素材の関係でヤマザキみたいな100円ロールは作れませんけど、原価に関しての考え方は学ぶ事は多いです。

文字

吉野
そこでは、和菓子も作られたんですか?
八幡氏
はい、和菓子部門でも勉強させてもらいました。
洋菓子の仕事をしながら1日3時間から4時間はあんこを炊いたり、ようかんを作ったりしてました。
吉野
八幡オーナーは、勉強熱心なんですね。
八幡氏
大学を出た連中は、一流企業に就職して何百万と言う給料をもらっています。洋菓子の勉強でヨーロッパに行った仲間の中には、日本でも有数な洋菓子店やホテルで最先端のケーキを作っています。
じゃあ、僕は何かというと菓子屋の経営的なものを貪欲に学んでいくことが、生きる道だと思ってました。
それから、和風のコンセプトにした洋菓子店は、これから繁盛するんではないかという確信がありましたんで、和菓子も作れるようになりたかったんです。そういう経験の全てが、必ず将来役に立つと思っていました。
吉野
和洋菓子の卸の会社の後は、どこに行かれたんですか?
八幡氏
広島にある洋菓子店に引っ張られて、そこで、お菓子作りから経営的な事もさせてもらいました。
それと並行して洋菓子店のコンサルタントの仕事を始めました。
吉野
洋菓子店のコンサルタントってどういう仕事ですか?
八幡氏
売上が伸び悩んでいたり、売上が上らない洋菓子店を売れる店にするという仕事です。
例えを話すと、ホテル出身のパティシエの方が雇われてシェフをして、職人のほとんどがホテル出身という店がありました。
お盆の時期にその店に行ったんですが、焼き菓子がほとんどなかったんです。お盆の時期っていうのは焼き菓子のギフトが売れるじゃないですか、なのにスッカラカンだったんです。これじゃあ、お客様は、買うものがない。
もちろん、シェフをはじめ職人は真面目に働いているんですが、ホテル出身の職人というのはイベントが理解できないんです。イベントに対する戦略も何もないんです。これじゃ、売上なんて上がるわけがないんです。
ホテルのイベントや催事っていうのはバレンタインやクリスマスイヴ程度です。でも、一般の洋菓子店では年間通してたくさんのイベントや催事がある、そこに商品をいかに提案していくかが、大事なんです。
吉野
なるほど。
八幡氏
お菓子に関しては問題はありませんでしたし、シェフや職人の方々の熱心な方が多かったので、イベントに対する提案と通常のお菓子作りとイベントの際の生産性を上げるアドバイスをさせていただいて、純利益をかなり上げる事ができました。
要はメリハリのあるお菓子の提案と職人の生産力をいかに上げていくかが問題だったんです。
吉野
そうですか。コンサルタント業務というと、店舗からショーケースから全て新品にして、大幅なリニューアルをするという大掛かりなものだと思っていましたが、発想を転換して生産性を合理的に改善することだけでも大きく売上に反映するんですね。
八幡氏
経営する意識を変えなくてはダメです。素材を見直したり、生産ラインを変えるだけでも違います。
僕の場合は、スタッフのタイムカードや帳簿を見せてもらって、無駄を洗い出すという事もやります。それだけでも20%の経費が削減できます。ただ闇雲に無駄を削ってもいいということではありませんが。
吉野
その後もコンサルタントを続けられたんですか?
八幡氏
はい、洋菓子店の休みの日を利用してコンサルをやってたんですが、本格的に会社を設立してコンサルタントを専門にやるようにしました。業者さんを通じて口コミで広がってコンサルタントの依頼が増えて忙しくなってきてましたから。
吉野
八幡オーナーの生きる道っていうのは、その方向だったんですね?
八幡氏
そうですね。今まで学んできた事を全て投入できました。
吉野
相談を受ける場合には、どういう相談が多いんですか?

八幡氏
ほとんど売り上げを上げるにはどうしたらいいかという相談です。
その場合は、まず生ケーキを見ます。ほとんどの店が生ケーキに魅力がない場合が多いんです。お客様はまずは生ケーキを見てその店を判断されますので、それを変える事から始めます。
ただ、コンサルを本格的に始めた頃は、クレームばっかりでした。
吉野
えっ?それは、どういう事ですか?
八幡氏
生ケーキを変えても売り上げが上がらないというクレームです。
僕は生ケーキを含め、色んな改善点を一斉に提案したいんですが、その店の力量では全ての改善を同時進行できない場合が多いと思い、比較的効果の出やすい生菓子の改善から始めようかと思ったんですが、生ケーキだけじゃあだめなんだなと思いました。
ある程度、総合的にやらないといけない店もあるんです。生ケーキの改善のポイントを応用して他の部分の改善までオーナーがご自分でできる場合もあれば、全ての改善点を提案しないといけない場合もあります。生ケーキでうまくいかない場合は、包材の見直しやディスプレーの提案、接客指導まで行ないます。
それ以外にも決算書を見せてもらいます。適切な包材を使っているのかとか、この経費を削ろうとか、アルバイトのシフトを合理的に変えたりとかすると、無駄な経費が削れ利益率が上がります。
売上が同じでも純利益が上がる場合もありますので、これも有効なアドバイスになります。
吉野
八幡オーナーの店の倉庫は2店舗分の包材関係があるのに、そんなに大きな倉庫ではありませんね。整理整頓がちゃんとされていて、必要なものがすぐに出せるようになっていますね。
八幡氏
倉庫の整理は、大切です。
売上が上がらない、利益がないという店に限って倉庫には、使いきれない包材が山積みされていて包材の墓場みたいになっています。10年以上も使われていないものが倉庫深くに山ほど眠っています。 もったいないから少しづつ使うためにとっているのかもしれませんが、10年前の包材を今さら使ってもセンスがない店と思われます。
包材の発注の仕方や、パッケージの計画的な製作などトータルで考えないといけないと思います。
僕は、自分の店やコンサルをさせていただいた店舗の失敗例を山ほど知っていますので、そういう失敗する要素を削っていくだけでも成功する確率は高いんです。
吉野
なるほど、失敗要素を削るという発想も大事ですね。
八幡氏
失敗しそうな事をやめさせるだけでも自然と売上が上がるし、利益率も上がります。成功例というのは、100%成功するとは限りません。
吉野
洋菓子店のコンサルタントの仕事をされていた八幡オーナーが、ご自分の店をオープンしたいと思われたのは、なぜですか?
八幡氏
クライアントの方から口ばっかりじゃないの・・・という意味の事を言われたんです。
ストーレートではなかったんですが、じゃあ、やってみようとオープンしました。
吉野
「わいず亭」という店名は、どういうところから付けられたんですか?
八幡氏
自分の苗字の「やはた」の「や」のスペルが「Y」ですから、「八幡の店」という意味で「わいず亭」にしました。
吉野
オープンの資金はどうされたんですか?
八幡氏
貯金はあったんですが、銀行にはお金がないと言って借りました。貯金には手を出したらだめだと思っていたんです。
コンサルタントで今にもつぶれそうな店に入ってオーナーと一緒に散々苦労した経験があったんで、お金のない恐怖からのがれることができなかったんです。
吉野
そうですか。八幡オーナーは経営の勉強もされたんで本当に堅実ですね。
八幡氏
やるときはバーンとやるんですが、やはり堅実にやる必要は絶対あります。
「わいず亭」の最初の店は、シューケースもオーブンも中古にしました。コンサルで新規オープンされる店にも最初からできるだけリスクを避けるように中古でやってくださいと指導する場合もあります。
もちろん、最初から新品で勝負する場合もありますが、ケースバイケースですね。店がオープンして1年でいけると確信して全て新品に買い揃えました。「これで、いける」と確信してからでも遅くはありません。
吉野
ご自分の店もうまく経営されているんですね。
八幡氏
はい、おかげさまで今までの経験の全てを投入しましたからね。
コンサルタントが自分の店ではうまくいかなかったんでは、しゃれにもなりませんから。
吉野
八幡オーナーにとって菓子職人として大切な事は何ですか?
八幡氏
まずは、安全ですね。大手の菓子会社で勤めた時に感心したんですが衛生面に細心の注意を払い、徹底した管理をされていました。スーパーに卸す菓子会社だったんで衛生事故が起こった場合の被害は甚大なものになります。
そこでの経験は本当に勉強になりましたから、それは今でもスタッフにも厳しく言っています。
それと、菓子屋は、人に感動を与えられる仕事です。ほんの数百円で幸せな感動を与える事ができる菓子屋って素敵だと思います。菓子屋をやれて僕自身も本当に幸せだと思っています。
だから、よけい安全には気を使います。
吉野
お客様の喜ぶ顔が好きなんですね?
八幡氏
人を感動させる為にできることは全てやります。旬のフルーツを使ったスイーツをスーパーよりも早く出すとか…。
例えば、スイカは5月頃出します。スイカを半分にカットしたものを中身をくり抜いてスイーツ仕立てにして出しています。1日5個程度ですが、お客様には喜んでいただいてますね。
吉野
ただ単にお菓子を出すんではなくて、そこに感動を入れてですね。
八幡氏
そうです。お客様が感動していただけるなら何でもやろうと思った物の極め付けが日本家屋をそのまま使った「わいず亭八幡店」です。八幡店の店舗の家屋は、内装は全てやり変えましたけど外観はそのまま使っています。
2003年の11月に「わいず亭」の本店をオープンして、次々とやりたいことが出てきたんですが、店舗のスペース上なかなかできないことが多かったんです。
で・・・・2店舗目を出そうと思って色々物件を見て回っていたときに、ここの日本家屋を見つけたんです。
店舗にするには広さも充分だったし、庭を駐車場にできる充分なスペースがありました。
そこで不動産屋に聞いてみると、そこにマンションを建てる計画があると言うんです。マンションなら、日本家屋は解体されてしまうんだと思うと、いてもたってもいられなくて大家さんに直談判に行ったんです。「この家屋をそのまま使いますので…」と何度も足を運んでお願いしました。
吉野
場所といい家屋や土地の大きさから考えると相当な投資ですね。
八幡氏
ハッキリ言って、大変な投資でした。
ただ、僕が理想としていた和風の洋菓子店というコンセプトに完全に合ったんです。ここを逃したらもう2度と同じような物件にはめぐり合えないだろうと思ったもんですから、真剣に話しました。
吉野
八幡オーナーの熱意が通じたんですね。
八幡氏
そうです。最後は快くご理解していただけました。本当にありがたいと思っています。
吉野
昔の和の家屋をそのまま使えるという事は八幡オーナーにしたら、ご自分のコンセプト通りの店作りができたんですね。
八幡氏
そうです。広さも充分ですから生のショーケースや焼き菓子のギフトのコーナーとか季節ごとのお菓子の提案もできますので、理想的な店になりました。
吉野
現在、中国とか韓国に進出している日本の洋菓子店のオーナーさんも多いですが、八幡オーナーはそういうお考えはありますか?
八幡氏
上海の近くの重慶という所へ洋菓子を教えるために出向いた事があるのですが、現地のスタッフの労働感覚の違いや材料の流通の不便さは感じましたんで、今の中国では、かなり難しい問題があると思います。ただ、ニューヨークなどは、感覚的に日本のビジネスのやり方や素材の調達は容易なので、挑戦してみたい気持は大いにありますね。
吉野
最後にパティシエになりたい若い方々にアドバイスはありますか?
八幡氏
夢を忘れるな。これですね。
洋菓子店の職人は、ハードです。でも、大変な中でも夢を満ち続ける限り、現実のものになります。夢を語ることが大事です。
ひとつの夢が叶ったら次の夢も現実になります。
うちでは、菓子作りだけではなく経営を含め色んな事をやらせます。今まで僕が経験して培ってきた事を教えます。
そして、5年経ったら卒業させます。店を成功させるためのノウハウはその間に徹底して教えます。
まずは、洋菓子店の厳しさの中でも決して夢をあきらめないことです。
吉野
今日は、長い時間本当にありがとうございました。
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